知識が乏しかったのか、それとも殺す気まではなかったのか、量が少ないので、食べても口がひりひりするぐらいですんだだろうが、傷害罪になるのは明らかだった。
ホテルの受付が、箱を持ってきた女の顔を覚えていた。 夜だというのに茶色のサングラスをかけていたので、かえって印象深かったらしい。 その身長や人相の特徴は、美知香と一致した。
こうなると、逆に明子の側が有利になった。 証拠を揃え、受付の証言ももらった後で、佑磨は美知香と連絡を取ろうとしたが、彼女は姿を消していた。 四国の実家にも帰っていないそうだった。
一人の幸福の陰に、他の人の不幸がある。 久典は事件の話を聞くと、黙って明子を抱きよせた後、心を決めた様子で言った。
「もうずいぶん動けるようになったし、故郷へ帰ります。 絵描きは絵筆が取れればいいわけだから」
定期検診をしていた佑磨はちょっと心配げに眉をひそめた。
「確かにめざましい回復ですが、長旅はちょっと」
「飛行機でひとっ飛びですよ」
久典は譲らなかった。
結局、大事を取って車椅子で空港に行ったものの、久典は自分の足で歩いて機内に入った。 見送りに行った晴佳と佑磨は、スロープを遠ざかっていく親子を見送りながら、長い間の肩の荷がようやく降りたという実感を、しみじみ味わっていた。
損害賠償の要求はなかったが、クリニックから見舞金の名目で二千万円が渡され、すべてが決着した。
肩を並べて車に向かいながら、佑磨が尋ねた。
「弁護士先生とはどうなってる?」
珍しく照れて、晴佳は足元に視線を落とした。
「うーん、まあまあかな」
「まあまあ?」
「そう。 薬局に迎えに来てくれてね、二人で夕食はよく食べる」
「夕食ね」
「留学すっぽかしちゃったから格好悪いかと思ったら、平気で仕事増やしてるらしい。 案外たくましいわ」
「晴佳には向いてるな」
「うん」
それでいつ結婚なんだ? と訊きかけて、佑磨ははっとして口をつぐんだ。 ひとりの幸せの陰には別の人の不幸…… 家では、朱里の命の火が、次第にかぼそくなってきていた。
自動で寝返りを打てる電動ベッドに替えてから、もう二週間が経つ。 最初は嫌がっていた朱里だが、もう今では素直に運命に従っていた。 自宅にいられるだけでも他の患者より幸せなのだと、自分に言い聞かせているようだった。
朱里がほとんど動けなくなっても、麓郎の訪問は止まなかった。 以前と同じさらっとした態度で、時間を見つけては現れ、朱里の好きな平井賢のCDを買ってきたり、詩の本を穏やかな低い声で読んできかせたりしていた。
その日は十一月の末だった。 もう寒いと言える気候で、マフラーをなびかせながら入ってくる麓郎の息が、かすかに白かった。
「朱里ちゃん、今日は驚いたよ。 駅前で交通事故見ちゃった。 若い男の子が、壊れた自転車の横に座りこんで頭かかえてるんだ。 顔がさ、青いっていうより紫色だったよ」
「どこか打ったのね。 おなかかしら」
弱々しい声が応じた。 ベッド脇の椅子に座ると、麓郎は明るく微笑した。
「時期外れのマンゴー見つけたんで買ってきた。 おばさんがジュースにしてくれるって」
朱里の唇がわずかに震えた。
「そう。 もうジュースしか喉を通らないんだ」
ひるまずに、麓郎はまっすぐ朱里の眼を見返した。
「もうじゃないよ。 君はしっかり生きてる」
「あと少しはね」
懸命の努力で、朱里は麓郎に微笑みかけた。
「でも、もういいよ、もう無理して来なくてもいいから、麓郎さん。 こんなによくしてくれて、すごく感謝してる」
「よくなんかしてない」
麓郎は鋭く言い切った。
「俺はさ、自分のために来てるんだから」
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