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あおのロンド 71


 椅子を引き寄せて座ると、麓郎は手袋を脱ぎ、両方の手のひらに、力を失った朱里の右手をそっと挟んだ。
「あのさ、出来てもやらないことって沢山あるだろ?」
 首から上はまだしっかりしている朱里は、瞬きして考えこんだ。
「まあ普通、そうよね」
「当たり前だ。 そうだよ」
 麓郎の頬が、かすかに引きつった。
「今年の春、女子学生が自殺したんだ。 僕のせいで」

 朱里は表情を変えなかった。 眼も動かさず、ただ唇だけしっかりと閉じた。
 室内は空調が効いてほどよい温度だったが、麓郎は冷たい指を暖めようとするかのように、朱里の手を持った自分の指先に息をそっと吹きかけた。
「三コ下の学部生で、素直なかわいい子だった。 研究で手伝ってもらって、口きくようになったんだが、それだけで、付き合うとかなんとかじゃなかった。
 でも彼女は悩んでたらしい。 不意に、一回だけデートしてくれませんかって聞いてきたんだ」
「それで?」
 少し沈黙が落ちたので、朱里は続きをうながした。
「……断った。 前にそういうのに応じたら、恋人気取りで言いふらされたことがあって。
 彼女は、珍しく食いさがってきた。 ほんとに一度だけだからって。 でもそうなるとこっちも意地みたいになってね。
 翌日から彼女、大学に出てこなくなった。 それで、一週間後に発見されたんだ。 山の中で」
 朱里は眼をつぶった。 声は出さなかった。
「お父さんが急死して、学校を止めなきゃならなくなってたらしい。 僕に相談したかったのか、それとも僕のことが好きで本当にデートしたかったのか、もうわからない。 下宿にあったはずのノートとか手帳とか、全部始末しちゃってて、警察は何も見つけられなかった。 遺書もなかった」
 ゆっくりと、麓郎は朱里の手をシーツの上に返した。
「二時間か、せいぜい半日付き合えばすむことだったんだ。 でも面倒くさかった。 嫌いってわけじゃなかったのに、変に先の先まで気を回して、僕は彼女を死なせてしまった」
 シーツに置かれた朱里の指が動いた。 懸命に力をふりしぼって、わずかに持ち上がった。
「ごめんね」

 麓郎は息を吸った。 予想もしなかった言葉を聞いて、顔が青ざめた。
「え?」
 朱里の目じりから銀色の粒が輝き落ちて、白いシーツに灰色の跡をつけた。
「私、自分のことしか考えなかった。 麓郎さんが来てくれて、すごく楽しかったから、まだまだ元気でいるふりして、もっと来てもらおうと思ってた。
 でも、もしかして、私がいなくなったら、麓郎さんって少しは悲しむ人?」
 一瞬、喉が詰まりかけた。 だが、麓郎は必死に唾を飲み下して、がらがら声になるのを防いだ。
「僕を利用してたつもりだったんだ」
「……うん」
 麓郎は微笑した。
「いいよ。 僕も……素になっていい? 俺って言うほうが楽なんだ」
「楽にして。 私もかわい子ぶるのやめるから」
「おいおい」
 麓郎は前にかがみこむようにして、ふざけて朱里をぶつ真似をした。


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