いつものように挨拶をしに居間の廊下に来たとき、麓郎の様子が少し違うのを、母の幸世〔ゆきよ〕でさえ感じ取った。
「今日はこれで帰ります。 でもあの、明日も来ていいですか?」
びっくりして、幸世はシニアグラスをずり下げて目を上げた。
「もちろん、いらしていただけるなら」
「すいません。 じゃ」
スマートな後ろ姿が見えなくなっても、幸世は首をかしげたままだった。
――とっても機嫌がいいのね――
まるで憑き物がおちたような吹っ切れた明るさが、麓郎にはただよっていた。
九時過ぎ、病院の委員会から戻ってきた晴佳は、母から麓郎の様子を聞いて考えこんだ。
「別人みたいだったの?」
「そう。 いつも礼儀正しくてきちんとしてるんだけど、帰りは重い雰囲気だったのよ。 まあ、無理ないけど。
でも、今日はいきいきしてた。 明日も来たいなんて言ってね」
「ちょっと話してくる」
あわただしくバッグを置くと、着替えせずに奥へ行こうとする晴佳に、幸世はあせった。
「どうしたの? 血相変えて」
「ううん、大したことじゃない。 ちょっとだけ訊きたいの」
廊下をすべるように歩きながら、晴佳は口をぎゅっと引き締めていた。 まさかとは思うが、あの麓郎という男は、どこか油断ならないから……
朱里の部屋は、サイドテーブルに置かれたスタンドの灯だけが点って、ぼうっとオレンジ色の光を投げていた。 大きな眼を見開いて天井を眺めていた朱里は、静かにドアが開いて姉が入ってくると、視線を動かして緩やかに微笑んだ。
「お帰りなさい」
「ただいま」
ベッドの横に、椅子が寄せたままになっていた。 母がさっきまで座っていたのだろう。 いつもは元ベテラン・ナースで現在は付き添いをしている大友さんがいるのだが、今日は定休日で、明日の朝八時から来ることになっていた。
コトッと椅子に座ると、晴佳はまず尋ねた。
「リモコン快調? 背中痛くならない?」
「平気」
すぐに朱里は、ボタンでベッドの傾き具合を調節してみせた。
「さすが兄貴が探してきただけあるわ。 いいベッドだ」
感心してから、晴佳はおもむろに本題に入った。
「今日、麓郎さん来たって?」
「うん」
朱里の眼が輝いた。 頬にうっすらと赤味がさしたのを見て、晴佳は自己嫌悪を感じた。 麓郎が何を計画していようと、かまわないじゃないか。 朱里が幸せになれるのなら。
姉のためらいを感じ取ったにちがいない。 朱里の方が、淡々と話し出した。
「明日も来てくれるって。 時間の都合がついたらいつでも来るって」
「そう」
朱里の手がゆっくりと動き、低いVサインを形作った。
「ね、お姉さん、私、人の役に立ってるのよ。 すごいでしょう」
思いもよらない言葉に、晴佳は頭を忙しく巡る不安から不意に引き戻された。
| 表紙 | 目次 | 前頁 | 次頁 |