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表紙

心の連鎖 7


 ダニエルズ校は普通高校と違い、単なる教養より、実用的な一般常識のある女性を育てることを目標にしていた。 だから毎週土曜は校内授業はなく、午前中は先生の引率で社会見学、午後は保護者もしくは許可を得た付添い人が迎えに来れば自由外出が許された。 家がロンドン近郊なら、日曜の午後まで自宅に帰ることもできる。 だから生徒たちは土曜日を日曜日以上に楽しみにしていた。
 アマンダは、驚いている同級生二人を交互に見て、しらっと言った。
「考えてみてよ。 シムズ先生はさっきの騒ぎを見たわけだし、いくら物分りのいい先生だって若い男子が校庭を覗くのを許しておくはずがない。 あの人は明日追っ払われて、それっきりよ」
「そうか、なるほどね」
 またフィリスよりもリーの方が真剣な顔になった。
「だからさ、うちのジョージに頼んで、あの、ええと、スコット・ロークだっけ?」
「ローム」
「そうだ、その人が本当にその事務所にいるか確かめてもらって、本人ならどっかちゃんとしたところで初デートを……」
「どんどん決めないでよ」
 いくらか冷ややかな声で、フィリスが遮った。
「私はあの男の人に興味があるとも何とも言ってないのに」
「興味ないの?」
 アマンダがすぐに問い返した。 フィリスは言葉に詰まった。
「あるんでしょ? 当然よ。 私たちみんなあるもの。 昼間に表で会ったって別にかまわないじゃないの。 話してみて、気にくわなければもう会わなきゃいいんだから」

 中世の有名詩人ジョン・ダンに関する講義中、珍しくフィリスは授業に集中できなかった。 なぜか、ごく幼かったときに過ごした粗末な部屋が、目の前にあるようにはっきりと浮かび上がってくる。 薄暗く、埃っぽい室内。 窓枠は歪み、いくら力をこめてもぴったりと閉められなかった。
 この学校に入学できたとき、どんなに嬉しかっただろう。 それまでは、ずっと一人ぼっちだった。 いてもいなくてもいい子供……いや、むしろこの世に存在しないほうがよかった日陰の子、それがフィリス・ラーセン・コートニーという、ごつごつした体型の、暗い少女だった。

 父の顔を知らずに、テムズ川近くの下層住宅で生まれたフィリスは、五歳のときにコートニー家に引き取られた。 母親が酒に溺れ、冬の道端で凍死したので、長男のロジャーが仕方なくフィリスを手元に置くことにしたのだった。
 だが、ロジャーには体の弱い弟がいて、その世話だけで手一杯だった。 フィリスは家庭教師をつけられただけで、いつも放っておかれた。 たぶんロジャーは、フィリスの存在さえ忘れかけていただろう。
 孤独なフィリスが思い出すのは母のことだった。 製糸工場の女工をしていた母は、フィリスを生んだことでクビになり、酒場女に身を落としたが、それでも娘をとてもかわいがって育てた。 明るくて唄のうまかった母。 十五になったら自分もこんな屋敷を飛び出してロンドンに行き、同じように水商売にでも入ろう、と半ばやけっぱちで決めていたフィリスの前に、亡き母を思わせる女性が不意に現れたのは、三年前のことだった。
 その女性、トリシー・ニュージェントが来てから、すべてが変わった。 気難しくて怒りっぽかったロジャーが笑顔を見せ、屋敷は年中春のように華やいだ。 始終変わっていた雇い人も長く居着くようになり、そして忘れ去られていたフィリスも、陰気な家庭教師から解放されて、同じ年ごろの少女たちで一杯の学校に入学することができた。

 この学校で、フィリスは静かな皮肉屋として一目置かれている。 余計なことはしゃべらないが、いざとなると相当辛辣で、しかも筋の通ったことをビシッと言うので、陽気な女の子たちのまとめ役みたいになって、陰の委員長と仇名されていた。
 ちなみに、表の委員長はアマンダ・レイシーだ。 彼女は貴族の娘だが、変わり者の両親が『子供はライオンのように崖から落として、庶民の中で厳しく育てるべし』という信条に従って、ダニエルズ校を選んだ。 とんだ見当違いで、娘はすっかりのびのびして級友たちと遊びまわり、忠実なジョージにプチケーキだのソーダポップだの差し入れさせて、週に一度は夜中の立食パーティーを開いた。 おかげで二組は他の組に大いにうらやましがられていた。
 そのアマンダが、恋の橋渡し役をするという。 会いに行って、本当にいいのだろうか。 フィリスはこの学校が大好きだった。 友達、先生、授業の内容、すべてが気に入っていた。 だから校則を破ったことは一度もない。 少なくとも大きな校則は。 ここを退学させられるのは不名誉だし、何よりもつらかった。 だが、それでも……
――自由外出のときは私服だから、どの学校の生徒だなんてわからない。 見晴らしのいい公園かどこかなら、彼に会ってどんな人か確かめるのも……――
 不意に心臓がびくんと動いた。 もみ絞られるような切ない痛みが、その後に続いた。
――やだ、これ何?――
 頬に血が上ってきた気がして、思わずフィリスは両手で顔を挟んだ。

 古典の授業が終わり、先生が教材をまとめて出ていくと、すぐにアマンダが近寄ってきた。
「気持ち、決めた?」
 反射的に、フィリスは首を縦に振っていた。


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