心の連鎖 22
「それはもちろん……」
あなたの味方よ、とトリシーが言い終わる間もなく、マフを持ってきた少年――顔を黒く塗っているのでピップかミックか見分けがつかなかった――がササッと横歩きしてロジャーに近づき、いきなり向う脛を蹴って大声であざけった。
「捕まえられるもんなら捕まえてみな! 臆病者のカスタード野郎!」
、そしてコマのように素早く半回転すると、全速力で走り出した。
ロジャーの顔が、沈む夏の夕陽さながら真っ赤になった。 そして、トリシーが止めようとして差し出した手を振り払うなり、一直線に腕白少年の後を追った。
見送りながら、トリシーは奇妙な感じに取り付かれていた。 この光景には見覚えがある。 マッカラム兄弟は、昔と同じ作戦を使ってきたにちがいない。 あのときは、逆上して追いかけた小間使いの足首をロープの罠がすくった。 だが、今回の結末は……
次の瞬間、トリシーは思わず口に手を当てた。
敷地の中に走りこんでいった少年は、ロジャーの手が後ろ襟にかかる寸前に亀のように首を縮め、全身を丸く折って力いっぱいジャンプした。
すぐ後ろに追いつき、しかも捕まえようと腕を伸ばした姿勢だったロジャーは、よけようがなかった。 前には一見何も異状はなかったし。 だから普通に大地を踏んだ。
ズズッという、床が抜けるような音がした。 そしてロジャーの姿は、一瞬のうちに地面の下にかき消えた。
聖書の『出エジプト記』で海が割れてエジプト兵が飲み込まれたとき、こんなふうだっただろうか、と、トリシーは反射的に連想した。 こここまで大掛かりな罠は、さすがの彼女も想像していなかったので、頭はともかく体が反応するまでに時間がかかった。
近くの樹上では、勝利に酔った子供たちが雄たけびをあげていた。
「やーい、ざまみろ!」
「孔雀(=気取り屋)がモグラになった! もう俺たちを薄汚いなんて言わせないからな!」
トリシーは急いで、大きく口を開いた落とし穴に駈けより、中を覗いた。 ロジャーは穴の中で立ち上がり、帽子を拾って泥を落としているところだった。
「だいじょうぶ?」
ゆっくりと穴の中の顔が上がった。 服と手以外は汚れていないし、別に怪我もしていない様子だが、真っ黒な目は、最近少年雑誌に掲載されはじめた殺人ビームのように、トリシーの眼を射通した。
「見ろ。 甘やかすとどこまでつけあがるか、自分の目でじっくりと!」
「ともかくそこから出ないと」
ロジャーは穴の縁に手をかけ、軽々と体を持ち上げて、深さ七フィートはある巨大な穴から自力で脱出した。 その頃には、少年たちはするすると大木をすべり降りて、右と左へ逃げていった後だった。
「長いことかけて堀ったんだな。 そして辛抱強く待ったんだ。 いつ来るかわからないわたしを。 あの執念深い小ネズミどもが!」
だから一人で来ると言ったのに、という言葉をあやうく飲み込んで、トリシーは同情した表情でうなずいてみせた。
「土地問題でもめているから、いつかあなたが自分で乗り込んでくると予想してたのよ」
「母親は気付かないのか! 正門のすぐ横だぞ! 自分だって落ちるかもしれないんだぞ!」
驚きが完全にさめたところで、ロジャーの怒りが一気に高まってきたのを見てとって、トリシーは今日の訪問をあきらめた。
「これでは話し合いは無理ね。 いったんうちに帰ってまた出直しましょう。 後でマーカスに事情を書いた手紙を持たせるわ」
「すぐに怒鳴り込みたいぐらいだ」
ロジャーはぶつぶつ言ったが、さすがに泥だらけのコートとつぶれた帽子で入っていくのははばかられたのだろう。 いつになくおとなしく馬車に乗った。
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