心の連鎖 26
フィリスは密会の約束について誰にも話さなかった。 ここまで協力してくれたアマンダにさえも。
朝は高かった雲は次第に降りてきて上空を覆いつくし、昼過ぎには大雨となった。 教師に指名されてテニスンの詩を暗誦しながらも、フィリスの心は西側の道に飛んでいた。
タールを塗った倉庫の壁に、石畳の路面に、水滴は激しく飛び散っているだろう。 煙突から上がるはずの暖房の煙は、風雨に流されて地表を覆い、硫黄と湿り気と馬糞の混じった独特の臭いが通りに充ちているはずだ。
いっそどしゃ降りなら、通行人はほとんどいなくなり、立ち尽くすスコットの姿は目立たないかもしれない。 だが小降りなら、大きな傘をさして女学校の裏庭前にたたずむ男性は人目を引くこと間違いなしだ。
雨よ、夕方にはぴたりと止んでくれ。 それが駄目なら誰も通らないほど大降りに……
「結構ですよ。 よくできました。 座りなさい」
自動的に暗誦し終えていたらしい。 フィリスは口を一文字に引き、ゆっくりと腰を下ろした。
隣りの席のジンジャーが囁きかけた。
「こんなの丸暗記して何の役に立つの? 桂冠詩人なんて偉そうだけど、詩なんかビール1パイントの値打ちもないって、うちの伯父さんが言ってるわよ」
「詩は歌の元よ」
フィリスは小声で言い返した。
「歌は元気の元。 戦うときも農作業するときも、歌って景気付けするでしょう?」
「お酒飲むときもだ」
それでジンジャーは納得したようだった。
タイラー先生が鼻眼鏡の上からギロッと睨んだ。
「私語は慎みなさい、マクダーモット、コートニー」
ジンジャーは首を縮め、ノートに身を伏せてせっせと書き写しているふりをした。
最後の授業から解放されるのが四時四十分。 夕食までには二時間近くある。 ほっとした少女たちは三々五々連れ立って、それぞれの部屋や補習室へ、給費生は食堂の手伝いや部室の片づけなどに向かった。
フィリスは六時まで図書室にいることにした。 調べ物をしていればアリバイ作りになるだろう。 裏庭まで五分、デートが十五分、帰りに五分――半時間ほど姿を消しても、図書室には裏口があるし、沢山の書棚が互い違いに並んでいるから、抜け出したのがわかりにくい。
五時半までに細々とした雑用を済ませて、フィリスは一階の外れにある図書室へ歩を進めた。部屋の中には三人の学生がいて、読書したりノートを取ったりしていたが、幸いフィリスに親しく話しかけてくるような者はいなかった。
二十分後、フィリスはさりげなく読みかけの本を机に置き、奥の本棚の間に入り込んだ。 そこから裏口までは数歩で行けた。 注意して音を立てないように掛け金を外すと、フィリスは細く開けた隙間からするっとすべり出た。
もう裏庭は暗かった。 幸い、雨はすっかり止んで、しかも雲は去らずに月がないという、『密会』には絶好の状況となっていた。
柔らかい地面ですべらないように気をつけながら、フィリスは倉庫の裏手に回った。 そのとたん、夜景にぼんやりと白い顔が浮き出して見えた。
二人は同時に早足になって、倉庫の壁の中ごろで手を取り合った。 スコットのかすれ気味の声が聞こえた。
「抜け出せたんだね」
「ええ」
「今日は朝からずっと仕事が手につかなかった。 窓の外ばかり見て、雨が降り続いたらどうしようって」
私と同じ……フィリスは泣き笑いに近い表情になった。
「柵を越えちゃったのね」
「なんとか雨が止んだからね。 草むらに飛び降りたから、足跡はついてないと思う」
足跡! フィリスはどきっとなった。 裏庭のぬかるみに残った自分の靴跡を、帰りに踏み消しておこうと思った。
そこで気付いて、フィリスはスコットの袖口をさわった。
「黒っぽい服着てる」
「目立たないように。 まるでこそ泥だ」
「ハート泥棒ね」
流行歌のフレーズを借りてフィリスがそっと言うと、スコットは照れて下を向いてしまった。
Copyright © jiris.All Rights Reserved