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心の連鎖 32


 その夜は霧が出た。 白くぼんやりした自然現象に守られて、フィリスはたやすく表通りに面した柵に近づくことができた。
 やがて忍ばせた足音が聞こえ、分厚いカーテンをめくるように、不意にスコットの姿が現れた。
 彼は通り過ぎなかった。 低い柵をはさんでフィリスのすぐ前に立ち止まり、瞬きを忘れたように見入った。
 やがて囁きが聞こえた。
「フィリス。 僕の大事なフィリス」
 思わずフィリスは柵越しに手をさし伸ばした。 二人は固く指を握り合った。
 スコットの喉が唾を飲み込むかすかな音を立てた。
「フィリス、お願いだ」
「なに?」
「僕と……逃げてくれないか?」

 普通なら驚くはずだ。 だがフィリスはわずかに首をかしげただけだった。
 前からこうなると決まっていたんだ――そんな声が頭のどこかで聞こえた。 駆け落ちなんて許されるはずがない。 ロジャーは必ず追っ手をかけるだろう。 だが、ひとつ手段がある。 ジャニスが退学になって以来、フィリスはずっとあることを考えていた。 というよりむしろ、思いつめていた。
 冷たい霧は、手袋をはめない二人の手を包み、青白く染め変えた。 だが恋人たちは、どちらも寒さをまったく感じていなかった。
 上体を伸ばすようにして、フィリスはスコットに囁き返した。
「行くわ。 あなたと」
 スコットの口が開き、ふるえ出した。
「フィリス……!」
 言葉を途切らすなり、彼は身を折って、握りしめたフィリスの手をキスで覆った。
「愛してる。 信じてくれ。 君をこの世のどんなものより大切に思ってる」
「ええ、ええ! 私も、私もあなたが好き」
 フィリスの声もふるえを帯びた。
「少しだけ待ってて。 要るものを持ってくるわ。 コートも着てくる」
「待ってるよ。 いつまでも」
 スコットの頬が痙攣した。 それは寒さのせいだけではなかった。

◇+-+-+-+-+-+-+◇


 トリシーが遠出するのは久しぶりだった。 ダリーはぐずり、トミーまでが不安になって母の後をついてまわった。
「ねえ、いつまでロンドンに行ってるの? いつ帰ってくる?」
 コロンの柔らかい匂いをただよわせながら、トリシーは身をかがめて娘に頬ずりした。
「すぐよ。 あさってには帰ってくるわ」
「じゃ明日はずっといないの?」
 ダリーは泣きそうになった。 トリシーは笑い、ダリーの金髪をぐりぐりと掻きまぜた。
「いつも庭やお友達のところで飛び跳ねてるじゃない。 ママが一日いなくたって、遊び相手はいくらもいるでしょう?」
「さあ、行くよ!」
 下から大声で呼びかけられた。 支度をすませたせっかちなロジャーだ。 トリシーは乳母のジニーに後を託して、軽い足取りで階段を駆け下りていった。
 夫妻が馬車に乗り込もうとした、まさにそのとき、執事のアンダーソンが珍しく息を切らせて走ってきた。 そして、手に持った四角い物をロジャーに渡した。
「たった今届きました。 速達だそうで」
 けげんそうに封を切ったロジャーの目が、たちまち皿のように見開かれた。


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