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表紙

心の連鎖 38


 その夜は、犯人たちには都合のいいことに、雲が分厚く広がった曇天だった。 ロジャーはきっちりと揃えた金をバッグに詰め、厳しい表情で馬車を降りた。
 大きな箱馬車の中には、トリシーだけでなく二人の探偵も息を潜めて成り行きを見守っていた。 その他、公園の入口にはもう一人の雇われ探偵が掃除人に化けて待機している。 三人とも、犯人が武器を持っていたらすぐ飛び出してロジャーを助ける手はずだった。
 ロジャーがフロックコートをひるがえしながら歩いていると、不意にびっくり人形のように、植え込みの陰から若い男が飛び出てきた。
 ロジャーは立ち止まった。 若者は黒いハンカチを三角に折って口を覆っていて、はしこく動く眼が街灯の光でかろうじて見える程度しか人相を見分けられなかった。
 くぐもった声で、若者はロジャーを脅した。
「さっさとその鞄を置いていきな」
「無事な妹と交換だ」
 ロジャーはぴしっとした口調で言い返した。 すると若い男は胸をそらしてクスクス笑った。
「さらったのは俺じゃねえ。 俺はただの使いっ走りさ。 お嬢さんはな、ここにいるよ」
 ふところから紙切れを出して、彼はふざけるように振ってみせた。
「お殿様よう、人質を取ってるほうが強いんだぜ。 かわいい妹をバラされたくなかったら、とっとと鞄を地面に置け」
 犯人の声が次第に荒くなったので、ロジャーはやむを得ず、バッグを街灯の横に置いて、一歩下がった。
 若者は狐のような素早い身のこなしで鞄をすくい取り、さっきの紙片を丸めて玉にして、ぽんと放った。 ロジャーが紙玉の行方に一瞬気を取られている隙に、覆面の犯人は茂みの隙間に飛び込み、姿を消した。

 ロジャーはすぐ紙を拾い、街灯のそばに持ち帰ってもどかしげに広げた。 その顔は、すぐに空以上にどんよりと曇った。
「くそっ、こんなことを!」
 大急ぎで馬車から出てきたトリシーは、ロジャーから渡された書面を見たとたんにうめき声をあげた。 そこには、スコット・ロームの下宿の住所が記されてあった。
「なんて奴ら! ここにいないのは、とっくに確かめてあるのに!」
「まだ望みはある」
 汚い字で書かれたメモを乱暴にポケットに突っ込みながら、ロジャーは妻と、そして自分自身に言い聞かせるように低く言った。
「探偵たちがヤツを尾行しているはずだ。 フィリスのところへ行けば、すぐにわかる」

 夫妻は探偵との打ち合わせ通り、ホテルで調査の結果を待った。 いつもならロジャーがいらついて部屋を歩きまわっても、トリシーは落ち着いて読書や手紙書きなどしているのだが、今度ばかりはむしろ彼女のほうが苛立って、二人が共に部屋の中をうろうろするという状態になっていた。
「さっきの男がスコット・ローム?」
「違うだろう」
 ロジャーはきっぱり否定した。
「ロームという男は背が高く、おだやかな声でとてもハンサムだそうだ。 だがさっきの奴はわたしよりもだいぶ背が低かったし、品のない声だった」
「そう」
 そしてまた二人はじっとしていられなくて、ぶつかりそうになりながら歩き回った。

 一時間ほどして、最初の知らせが来た。 探偵が連絡係に雇っている浮浪児がメッセンジャーとして手紙を持ってきたのを、夫妻は取り合うようにして読んだ。
「犯人は港へ直行。 もう一人と合流して、ニュージーランド行きのサザンホープ号に乗船。 女性の同行者なし」
「高飛びする気ね!」
 恐ろしい不安に打たれて、二人は青ざめた。
「もしかして……」
「よせ!」
「ええ……よすわ。 フィリスは生きてると信じるわ。 でも、もう一人の犯人って……」
 その名前を、トリシーは無理やり飲み込んだ。


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