心の連鎖 40
馬車を待たせてあるので急がなければならなかった。 フィリスは慌しく鞄に手鏡やハンカチを詰めこみ、ざっと部屋を見回して忘れ物がないか確かめた。
そのとき、不吉な予感がひらめいた。 一箇所に住み着くことができず、こんなふうにずっと逃げ回るんじゃないか。 しかも結局見つかって、引き離されてしまうんじゃないだろうか。
そんな弱気を振り払うように頭をぶるっと動かすと、フィリスは鞄を取り、ドアを出た。 すぐにスコットが鍵をかけ、フィリスの手を握って階段を下りた。
馬車の中でも、二人は手を繋ぎあっていた。 お互い手袋をしていたが、それでもうっすらと体温が伝わってきて、夜中に旅する心細さがずいぶん薄らいだ。
声をひそめて、フィリスが尋ねた。
「兄は探偵を雇ったかしら」
スコットは確信を持ってうなずいた。
「絶対だ。 家名があるから警察には頼まないと思うよ」
私は家名を汚すようなことをしてるんだ、とフィリスはぼんやり考えたが、後悔の気持ちはまったく起きなかった。 どうせ私はロジャーにとっては迷惑な半姉妹にすぎないんだから、デビューなんていうお金と手間のかかる儀式をしなくてすんでいいんじゃないかとさえ思った。
地平線が白んできたころ、馬車はようやく止まり、馬が勢いよく鼻を鳴らすのが聞こえた。 スコットに寄りかかってうつらうつらしていたフィリスは、すぐに眼をあけて窓の外をすかし見た。
「もうロンドン?」
「いや、まだ郊外だ。 でもここが目的地だよ」
今度こそゆっくりしたいと願いながら、フィリスは身軽に馬車を降りた。 少しでも元気に見せたかった。 胸おどる駆け落ちの予想はどんどん外れていくけれど、スコットさえそばにいてくれれば耐える自信はあった。
しかし、クリーム色に塗られた清潔な部屋に通されるとすぐ、スコットはまた帽子を取って出ていこうとした。 これにはたまらず、フィリスは戸口に回りこんで、彼の体に抱きついてしまった。
「どこへ行くの?」
「フィリス……」
「もうここにいてくれたっていいじゃない。 私たち、まだ……」
キスもしてない、と言いかけて、フィリスの口が震えた。 スコットの誘いを受けたとき、いや、受ける何日も前から、フィリスはひとつのことを思いつめていた。 ジャニスと同じことをすれば、保護者たちは結婚を許してくれる。 許さないわけにいかなくなる!
スコットは眼をしばたたいた。 心なしか、目頭あたりが充血しているように見えた。
そっと、だがきっぱりと、スコットはフィリスの柔らかい肩を持って自分から引きはがし、しみじみと顔に見入った。
「もう一つだけ大事な用件があるんだ。 それがすんだら」
「すぐ帰ってくる?」
スコットの顔が歪みそうになった。 必死で表情を整えると、彼はそっと顔を近づけ、フィリスのビロードのような眉と、こめかみと、寒さに赤くなった頬に唇を置いた。
「僕のかわいいフィリス。 君のために僕は上を目指すよ。 全力以上にがんばって、いつかきっと君にふさわしい男になる」
「ありがとう。 でも無理しないで。 私も手伝う。 少しでも支えになれるようにいろんなことを覚えるから。 家計のやりくりとか、料理の仕方とか」
どこか寂しげに、スコットは微笑んだ。
「君の手を荒らしたくない。 料理番を雇おう。 庭番も、門番も、それに小間使いを一個小隊も」
「スコット! 財産なんかいいのよ! 家がいくら広くても独りぼっちは嫌。 どこにいてもあなたが見えて、声が聞こえる家がいい」
二人は激しく抱き合った。 初めて重なった唇は、どちらも熱く、ぎこちなく震えていた。
やがて顔を離したとき、スコットの眼は明らかに濡れていた。 驚いたフィリスが声をかける暇もなく、彼は身をひるがえして廊下に出ていった。
やがて馬車の去る音が、フィリスの耳に重く響いた。
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