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表紙

心の連鎖 47


 その日はうす曇りで、ときどきひやっとする風が吹いていたが、久しぶりにイングランドの土を踏んだトミーははしゃいでいて、半ば無理やりにフィリスを連れ出した。
「まだ荷ほどきが済んでないのよ」
と、フィリスは文句を言ったが、陽気で人をそらさないトミーの誘いは振り切れなかった。
 早咲きの野ばらがかえでの木にしがみつくように咲いていた。 淡いピンクの花を二輪摘んで、トミーはまずフィリスの帽子に差し、それから自分のブラウスのポケットに飾った。
「春ね。 テッサロニケもいいけど、私はイングランドの春が世界で一番好き!」
 そう言うなり、トミーは駆け出して、両腕を広げてくるくる回った。
「緑の草原の中に木があちこち固まって生えてる、こののどかな景色がたまらないわ!」
「吹く風にはベルさんとこの牛小屋の臭いがいっぱいだけどね」
「フィリス」
 トミーは笑いながら睨んだ。
「ロマンティックのかけらもないのね」
「昔はあったわよ」
 フィリスは静かに答えた。
「あなたぐらいのときは、夢で風船みたいにふくらんでたわ」
「あなたぐらいって言い方はやめて。 オールドミスみたいに聞こえるじゃない。 まだたった二十二のくせに。 花の盛りでしょう?」
「そう見える?」
 ソバカスの散った口紅ひとつつけない顔を、フィリスはわざと突き出してみせた。
「あんたの企みはわかってるわよ。 私を付き添いに見せかけて、あの角からマッカラムの家に飛んでいくんでしょう?」
 すっかり見抜かれていたトミーは、あわてて弁解を始めた。
「だってもう半年も会ってないのよ。 男の子って十代にすごく変わるじゃない? あの三悪がどんなになったか、早く見てみたいのよ」
 後ろ向きに歩きながら熱弁しているうちにお下げが枝に引っかかった。 トミーは口をとがらせて振り払い、面倒くさそうにぐるっと頭に回してピンで止めてしまった。
 髪が長いので、巻いたお下げは王冠のように金色に輝き、フィリスは思わず見とれた。
「トミー、お姫様みたいよ。 ううん、それより豪華。 女王さまだわ、あなた」
 早逝したアランが見たらどんなに喜んだだろう。 トミーは理想的な姿に成長しつつあった。 父譲りですらりと背が高く、蜜色の金髪にはゆるやかなウェーブがかかり、眼は秋の空のように深い青の色をたたえていた。
 照れて、トミーは落ちていた枝を拾い、道にはみ出た高い雑草を払いながら歩き出した。
「写真で見た実のお父様に似てきたな、とは思うわ」
「そっくりよ」
 フィリスは厳かに断言した。

 ゆるやかな角を曲がると、トミーはすぐにスカートをはためかせて走り出した。 小鹿のような後ろ姿を少し見送ってから、フィリスはゆっくりと向きを変え、トミーのアリバイ作りのために、しばらく散歩することにした。
 少し寒くても、やはり春だった。 空気には牛小屋の悪臭だけでなく、まろやかな野草の息吹きがただよっていた。
 恋か…… 私は一回で燃え尽きてしまったな、とフィリスは思った。 その原因は、引き裂かれたときの驚きと惨めさ、失望感だけではなかった。
 スコットと初めて眼を見交わしてから二週間、フィリスはこれ以上ない幸せを味わった。 愛され、大切にされ、自分からもひたむきに愛した。
「これから何があったって、あんな夢の時間は二度と訪れない。 みんなはおとこ女と笑うけど、自分に自信を持って練習して、ついにチャンピオンになれたのだって、全部スコットのおかげ」
 ロジャーは頑固おやじかもしれないが、公平な人間でもあった。 だからスコットが取った行動をすべて、包み隠さずフィリスに話した。
「彼は私を守ろうとしてくれた。 それで充分。 そう思わなくちゃ」
 黙って去っていった恋人を思い出の中に封じこめようと、フィリスはこの五年間努力してきた。 人は変わる。 立場も、環境も。 いつか彼が妻子を連れて散歩しているところにばったり行き会っても、動揺を見せずにすれ違えるようになろうと、フィリスは固く決心していた。
 だが、思いがけず旧友のアマンダに逢ってしまったことで、その決意は微妙に揺らぎはじめていた。 アマンダは二日前の午後、フィリスに言ったのだ。
「あなたがまだ独身のうちに会えてよかった。 これだけは言わなくちゃとずっと思っていたの。 スコットからときどき便りがあるのよ。 彼はあなたのために生きてる。 必死に働いて足場を固めてるわ」
 それから二人は手を取り合った。 昔の友情がどっと蘇ってきた。
「お兄さんに負けちゃだめよ。 いざとなったら私のところへ逃げてきて。 いい? 約束よ!」


 裏口から入って、鍔広の帽子のリボンをほどいていたとき、メイドのロッティーが広いキッチンに入ってきた。 そして、フィリスと目が合うと、ひどく緊張した顔つきになった。
 その様子に、フィリスはただならぬものを感じ取った。 それで、無意識に鋭い声になった。
「なに? どうしたの?」
 ロッティーは唇をなめ、首を伸ばして廊下を左右見渡した。 それからフィリスに近づき、熱い息で耳元に囁いた。
「みえたんですよ。 ええと、ロームっていう若い紳士が、フィリス様に会いに」


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