心の連鎖 49
フイリスは足を止めた。 というより、体が動かなくなった。
男はゆっくりと木戸を降り、いつくしむように古びた掛け金を手でさすった。 それからもう一度、ポンと叩いて気持ちの区切りをつけ、大股で歩み出そうとした。
その後ろ姿に、フィリスは呼びかけようとして、できなかった。 声が喉の奥で塊となって、どうしても吐き出せなかった。
フィリスはじっと立ったままでいた。 黙って見送るつもりだった。 しかし、不思議なことに、それまで無風だった林の外れに小さな風の渦巻きが起こった。 木の葉が揺れ、千切れて、ふたりの間を縫うように走りすぎ、木戸に当たった。
気配にはっとした男は、まず扉の横を目で探し、それから素早く振り返った。
それは確かにスコットだった。 しかし、昔と同じなのは夢見るような眼だけで、後は別人のように面変わりしていた。
まず、色が違った。 インド系の人ではないかと思うほど日焼けして、赤銅色に近い。 そして口髭……スコットがこんなに見事な髭を生やせるとは、フィリスには考えも及ばないことだった。
体格も以前に比べてがっちりしていた。 その筋肉のつき方は、そして厳めしく変わった顔立ちは、以前のスコットよりもむしろロジャーに近いものを感じさせた。
スコットのほうも無言でフィリスを見ていた。 それがフィリスには、これが僕の愛したあの少女なのか、と、信じられない思いにひたっているように見えた。
互いにぎこちない時間が流れ、やがてようやくスコットが動いた。 ゆっくりと頭から帽子を取り、フィリスに向かって歩いてきた。
ほとんど触れるほどの距離まで、彼は一気に近づいてきた。 そして、囁き声で言った。
「やあ」
同じように返事したかったのに、相変わらずフィリスの喉は詰まっていた。 唇を固く結んで下を向くと、フィリスは大きく息を吸い込んだ。
帽子を小刻みに手で回しながら、スコットは早口で続けた。
「今日は挨拶だけのつもりで来たんだ。 たぶん君には会わせてもらえないと最初から思っていたから。
玄関を出たときに、思い出した。 君が言っていた木戸の話。 ここに小さい君が乗ってたんだなと思うと、初めて来たのにすごく懐かしくて」
フィリスの喉を占領していた塊が徐々に融け始めた。
――スコットは私に会いに来た。 まちがいなく、他の誰でもなく、この私に…… ――
「町の旅館に部屋を取ってあるんだ。 これから毎日ここに来るつもりで。 君に会えるまで、十日でも一月でも頑張る決心をしていたんだ」
フィリスの眼が、若葉の影を落とした地面から上にゆっくりと昇った。 だがまだ、頭も心も熱病のようにぼんやりしていた。
「スコット」
「すまない!」
それは胸の底から湧き出た叫びだった。
「さっき君のお兄さんに金を返してきた。 結果的にあいつらの計画に巻き込んでしまったことをお詫びした。 いくら、共犯にならないなら君を殺すと脅されたとしても、罪に変わりはないんだから」
声が情熱にかすれてきた。 力なく垂れたフィリスの手を、スコットは夢中で持ち上げて握りしめた。
「どんなに君を連れていきたかったか! でもあの時の僕はただの見習で、君の夫になる資格なんかなかった。 だから別れるときに誓ったんだ。 絶対に一人前の設計者になって戻ってくる、必ず君にふさわしい男になるって」
彼の手は火のように熱かった。 焼けるような思いが、そのまま体を火照らせていた。
「僕は五年間、インドシナ半島でこの日を待った。 小さな建築会社の下請けから始めて、金持ちの離れ、地方の橋、バンガロー、何でも手がけた。
去年あたりから少しずつ認められて、事務所を立ち上げ、ホテルを設計させてもらえた。 今年は駅も作った。 今、注文を三つ抱えているんだよ。 どれも大きなプロジェクトなんだ」
「スコット……」
フィリスは目を閉じた。 このままいつまでも懐かしい声に包まれていたかった。 すべてが夢に思える。 素晴らしいが、はかない夢に。
スコットが、握った手を強く揺すぶった。
「フィリス、フィリス! 聞こえてるかい?
ろくに言葉も通じない異国で働くのは、想像以上に大変だった。 君がいたからこそ乗り切れたんだ。 成功して君を迎えに行くという目標があったから、食べるものにも苦労する日々を耐え抜けたんだ」
「私?」
突然フィリスは、水から這いあがった犬のように激しく首を振った。 不意に胸が焦げるほど苦しくなった。
「私のどこがそんなに? あなたは夢を見ているのよ。 夢の中で私をどんどんふくらませて……」
片手を惜しそうに離すと、スコットはポケットに手を入れて、折りたたんだ紙片を出した。
「見ていたのは夢じゃない。 現実の君だ。 本土から来るイギリス人に聞いたり、何ヶ月も遅れて届く新聞を切り抜いたりして、君のことは何でも知ろうとした。
君もすごく頑張ってたんだね。 自分のことみたいにはらはらしたり、喜んだり、ニュースが届くのが待ち遠しかった。
これ、事務所と自宅の壁に貼ってたんだよ。 ほら」
その新聞記事を見て、フィリスはたちまち耳まで真っ赤になった。 それは、朝方ロジャーが溜め息まじりに眺めていた、泥除け眼鏡の写真だったのだ。
「なんでこれを! よりにもよって」
一番写りの悪い、深海魚みたいな顔になっているものを! フィリスは身の置き所もなくなったが、スコットはまるで気にしていなかった。
「助手や工事関係者や、走り使いの子供にも自慢してたんだよ。 これが僕の好きな人だって。 みんな眼を丸くして感心してたよ」
眼を丸くしたのは別の意味だろう、とフィリスは思わずにはいられなかった。
それでも、幸福感が稲妻のように心を照らした。 踊りだしたいほど幸せだった。 スコットは今でも彼女のものなのだ。 見かけはこんなに逞しくなっても、心は繊細で一途なままだった!
Copyright © jiris.All Rights Reserved