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黄金の日輪を越えて

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第2章  花の名前


 鋤を納屋にしまおうとして、ぎしぎしときしむ戸を開いた若者は、中から飛び出してきた影とあやうくぶつかりそうになった。
「エレ、私ね…… 」
 そこで人違いと悟った影は、足を止めて固まった。 五月の眩い光の中にいた若者は、薄暗い納屋を見通すことができず、わずかに目を細めた。
「マルゴか?」
「ええ…… 」
 低い返事が返ってきた。 さっきの弾んだ声とは別人のようだ。 目が慣れてくると、うつむき加減のすらっとした姿が見えてきた。 戸口に立ったまま、若者は低い声で尋ねた。
「ここで何をしている」
「バベットの様子を見に」
 バベットとは牛の名前だった。 若者が中に入ろうとすると、マルゴは後ろに下がった。 道を譲ったというより、大きく避けたという雰囲気で、若者の眉がぎゅっと寄った。
「なんでよけるんだ」
「よけてなんかいないわ」
「ニ歩も下がったじゃないか。 俺は害虫か?」
 困って、マルゴは顔を伏せた。 波打った前髪が額にかかる。 それを指でかきあげながら、マルゴはやわらかに言った。
「ちがうわ、ジルベール。 ただ私は、じゃまになっちゃいけないと思って」
 ジルベールは吐息を漏らした。
「やれやれ。 うちのお嬢さん方は、みな謙虚でいらっしゃる」
 鋤を横の壁にたてかけると、ジルベールは義理の妹を振り返り、平坦な声で言った。
「フィリップが帰ってきてる」
 思わずマルゴは顔をあげた。 とたんに灰色の瞳と視線が合って、あわてて目を伏せる。 なぜか背筋に震えが走った。
「予定では来週のはずだけど」
「またさぼって早めに戻ったんだろう」
 ジルベールの声音に苦いものが忍び込んだ。
「自分の幸運を、まったくわかってないやつだ」
「わかってるのよ」
 ややおそるおそる、マルゴが口を挟んだ。
「だから仲よくしてくれるの。 いつもすてきなお土産をくれるし」
「感謝なんてするなよ」
 ジルベールがピシッと言った。
「当然なんだからな。 本当ならおまえがフィリップのかわりにレンフラール城のお姫様となるはずだったんだから」
「ばかなこと言わないで」
 マルゴは淡くほほえんだ。 まったく問題にならないという言葉つきだった。
「なれっこないでしょう? この肌を見て。生まれ落ちたそのときから、日に焼けてもいないのにこんなに黒い」
「黒くなんかない」
 ジルベールは強く遮った。
「金色だ。 きれいな、なめらかな金褐色だ」
 声が次第に低く穏やかになった。 田舎の子とは思えないすんなりした指が伸び、マルゴの頬をやさしくたどった。
「おまえは美しい。 春の夕べの月のように。 名前のとおり、やわらかな草原に咲くマーガレットのように」
 マルゴは歯をくいしばり、そっと膝を曲げて義兄の手から逃れた。
「美しいのは兄さんよ。 お父様もお母様も期待してる。
 ねえ、ジルベール。 私、村の雑貨屋で働こうと思うの」
 ジルベールの顔が強ばった。
「働く?」
「ええ、そう。 今年は日照りが続いて作物の出来が悪いでしょう。 少しでもお金を稼いで、家計を助けたいの」
「だめだ」
 ジルベールは一言の元にはねつけた。
「たしかにうちは貧乏だが、食うに困るほどじゃない。 村にはいろんな人間が来る。 中には女めあての流れ者もいるんだ」
 ジルベールはマルゴに一歩近づき、すれすれに立った。 マルゴは無意識に身を縮めた。
「マルゴ、おまえもエレも欲がなさすぎる。 自分を安売りするな。 わかったな」
 しぶしぶうなずいて、マルゴは音もなく戸から出て行った。


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