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黄金の日輪を越えて

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第3章  兄の出発


 喉がたまらなく渇いた。
 裏口から台所に入って、棚からワインを取り、ゴブレットにそそいで一息で飲み干した。
 さすがにくらくらする。 水で薄めるように母に注意されているのだが、エレは誰も見ていないといつも一気飲みしてしまうのだった。
 開けっぱなしの戸から、水桶をかついだローゼン爺が入ってきた。 痩躯ながら骨太で、いかにも老兵という雰囲気だ。
 彼は十四年と少し前、乳飲み子だったエレをふところに抱いて、闇に紛れてサンマルタン城に入り、それからずっとエレの影として仕えている男だった。
 召使とも腹心ともつかないこの男、エレに遠慮なくものを言う。 このときも、桶を置いて腰を伸ばすなり、白い眉の下の鋭い目を細め、厳しい口調で叱った。
「また裸足。 間もなく町へ行くのに、革靴に足を慣らしておかないと、あっという間に豆だらけになりますぞ」
「町なんか行かない」
 エレは口を突き出して反論した。
「うちは金ないもん。 修道院学校に入るなんてとても無理! ジルでさえ学費が足りなくて学校から返されたんだよ。 一番の成績だったのに、かわいそうに!」
 ローゼンの眼がきらりと光った。
「何を言うんです。 エレーヌ様は最高の教育を受けて、レディ中のレディにならなければいけません。
  武術はわたしがお教えすることができる。 だから鍛えました。 鍛えすぎたかと思っておる次第です。 ですが貴婦人教育は無理なので、町に行っていただきます。 そのためにちゃんと用意はしてあります」
「そのために…… 」
 またいつものお説教か、と窓の外に視線をそらしていたエレは、ローゼンの最後の言葉に鋭く反応した。
「ということは、何か預かってきてるんだね?」
 ローゼンは表情を変えなかったが、かすかに瞼が揺れたのを、エレは見逃さなかった。 身軽にローゼンに駆け寄ると、エレは彼の上着の裾をつかんだ。
「ねえ、ジョゼ。 それ、お金? それとも宝石かなんか?」
 ふっと息をつき、ローゼンは降参した。
「……宝石です」
 エレが飛び上がりかけたので、ローゼンは素早く釘をさした。
「エレーヌ様専用の。 他の子には関係ないものです」
「そんなこと言わないで!」
 エレは一段と強く裾を握りしめ、効果満点の『お願い』ポーズを取って、うるんだ眼で見上げた。
「ジョゼ、ねえ、ジョゼ! 私たちは十五になってからでいいから、ジルを一日も早く復学させて。 ジルは頭がいいし、顔はあんなだし、おまけに絵まで天才的に上手なんだよ。 ジルが出世してここを盛りたててくれたら、私たちだって後ろ盾ができる。 援助してあげてよ!」
「私たちですと」
 ローゼンはつぶやいた。
「つまり、エレーヌ様と、マルゴと、ということですか?」
「もちろんよ!」
 何を今さら、という口調でエレは言った。
「マルゴと私は、ずーっと同じベッドで育ったのよ。 一心同体。 どこへ行くのもいっしょ!」
「それは……」
 なりません、と言いかけて、ローゼンは気を変えた。 そして、静かに続けた。
「たしかに、わたしが永久にお守りできるわけではありません。 ジルとマルゴは殿様と奥方様のおかげでしっかりした真面目な子に育ちました。 あの子たちなら、エレーヌ様を支えていけるかも」
 うれしくて、エレの小さな体は今にも駆け出しそうだった。
「じゃ、いいね? ジルに、学校へ戻れるって言って、いいよね!」
 目じりに皺を寄せて、ローゼンがうなずくやいなや、エレは鉄砲玉のように裏口から飛び出していった。 その後ろ姿を目で追いながら、ローゼンはひとり呟いた。
「かわいい。 本当に善良な方だ。 だがもっと世の中の非情さを教えるべきではなかったかな」

 転がるように走ってきたエレを、マルゴは笑いながら受け止めた。 小柄できびきびしたエレとちがい、マルゴは柳のようにすらりとして、背が高かった。
「どうしたの? そんなに息を切らして」
「あ、マルゴ、ジル見なかった? 畑にも丘にもいないんだけど」
「ジルならさっき納屋に入っていったわ。 たぶん二階で絵を描いているんだと思う」
「そうか、わかった!」
 またすっ飛んでいくエレを見て、マルゴの浅黒い顔にふたたび優しい微笑が浮かんだ。

 ジルベールは確かに二階にいて、木の板に炭のかけらで人の顔を描いていた。 指で四角い囲いを作り、バランスを確かめながら線を置いていく。 子供のころから暇さえあれば絵を描いていた。 庭の土に棒切れで記した絵を追っていけば、どこにいるかわかると言われた。 学校のノートは教師や同級生の似顔絵だらけだった。
 油絵具がほしい・・・ それがこの静かな少年の夢だった。 高名な画家に弟子入りしたかったが、養父母を放り出して家出することはできなかった。 それにもう1人、どうしても離れたくないひとが、ここにはいた……
 ミシミシ、ガタン、と音をさせながら、誰かが梯子を上ってきた。 ジルベールが上半身をねじって振り向くと、巻き毛におおわれた可憐な顔が床からのぞき、にやっと笑った。
「やっぱりここだ!」
 身軽に飛び上がると、エレは義兄の横に、胡坐〔あぐら〕をかいて座り込んだ。
「ジル、ナントの学校へ戻れるよ! ジョゼが工面してくれるって」
 エレが思ったほど、ジルベールは喜ばなかった。
「ふうん」
 気のない返事をしてまたデッサンに戻ってしまったジルベールを、エレはがっかりして上目遣いで見た。
「なーんだ。 うれしくないの」
「うれしいよ」
 わき目もふらずに手を動かしながら、ジルベールは言った。
「でもな、クソ教師に会うのはうれしくない」
「クソ教師?」
 おもしろがって、エレは身を乗り出した。
「どこがクソ?」
「襲ってくるんだよ、俺のこと」
 うひゃー・・・ 
「殺そうとするの?」
 冷たいほど整ったジルベールの顔が崩れた。
「ちがうの。 つきまとって、俺の手を取って言うんだ。 おお、ジルベール、君はなんて美しいんだ。 君のためならなんだってする。 おお、わたしの天使、とかなんとか」
 なんだ、それは・・・ エレはあっけに取られた。
「ジルを女の子とまちがえてるの?」
「そういうやつは、男しか愛せないんだ」
「愛してどうなるの」
 ジルベールはエレの耳に口を寄せて、教えてやった。 たちまちエレは真っ赤になった。
「そんな…… そんな!」
「いやだろ? 俺もいやだ。 俺は女を抱きたいんだ。 抱かれたくはない」
 喉を詰まらせながら、エレは兄の『貞操の危機』を心配した。
「どうしよう。 ジルが襲われちゃうんなら、ナントは無理かな……」
「だいじょうぶ。 俺は腕力強いから。 一度、前歯折ってやった。 でもさすがに院長先生に言いつける勇気はなかったらしい。 にらまれて、いろいろ嫌味言われたけど」
 珍しく自分のことをしゃべるジルベールを、エレは丸い眼でながめた。 やはり復学できるのがうれしいらしい。 頬がわずかに紅潮していた。
 振り向くと、ジルベールはエレの髪を撫でた。
「おまえが言ってくれたんだろう、ジョゼに?」
 エレは黙って肩を軽くすくめた。 ジルベールは微笑した。
「ありがたく受けるよ。 やっぱり学問は必要だもんな。 俺のような立場では特に」


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