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黄金の日輪を越えて

第6章 悲劇
両手をもみ合わせながら、イヴォンヌがヴィクトールのいる書斎に入ってきたのは、入日の余韻が消えかけた七時過ぎだった。
「あなた、マルゴがまた帰ってこないの」
「え?」
支払済みの請求書を整理していたヴィクトールは、眉を寄せて妻を見つめた。「外出していたのか?」
「ええ、オーセの家に手伝いに。 明るいうちに帰るよう何度も言ったのに」
二人は顔を見合わせた。 ヴィクトールは立ち上がり、帽子をかぶった。 夫が壁に掛けた銃を手に取るのを見て、イヴォンヌは息を呑んだ。
「猟銃が必要?」
「念のためだ」
そうつぶやくと、身をひるがえして書斎から出ていきながら、ヴィクトールは大声で下男を呼びつけた。
「ジャン・ポル! ジャン・ポル!」
「はい、旦那様」
「斧を持ってついてきなさい。 マルゴを探しに行く。 まだ帰っていないんだそうだ」
ジャン・ポルのいかつい顔が青ざめた。
「おととい、隣の村が夜盗に荒らされたそうですよ」
「なに!? なぜそれを早く言わない!」
狼狽して、ヴィクトールは走り出した。 ジャン・ポルもあわてて後を追った。
間もなく、山羊の世話をしていたエレが、裏口から台所に入ってきた。
「うー、喉かわいた」
またワインの一気飲みをしようとして、隣の石造りの広間をおろおろと歩き回っているイヴォンヌに気づき、エレは何往復か目で追ったあと、我慢できなくなって尋ねた。
「どうしたの、落ち着かないね、母様」
急いで顔を上げて、イヴォンヌは無理やり笑顔を作った。 うっかり話せばこの子は、自分も探すと言い張って、もう薄暗くなっている戸外に飛び出していってしまうだろう。 それだけは防がなければ。
「あ、あのね、ちょっとお父様ともめて」
「めずらしいなあ。 喧嘩なんて一度もしたことないのに」
「それが……」
がさがさと慌しい音が玄関から聞こえてきて、イヴォンヌは大急ぎで歩き出した。
「ヴィクトール?」
「そうだ」
息苦しそうな声が響いた。 夫がジャン・ポルと二人がかりで玄関からかつぎこんできたものを一目見て、イヴォンヌの全身が総毛だった。
「マルゴ…… 」
少女は父親の黒い上着にくるまれ、見えているのは、変わりはてた顔だけだった。 左半分は紫色に腫れ、唇の端から血が流れている。 固く眼を閉じたその顔を、イヴォンヌはそっと撫でまわし、それから激しく胸に抱き取った。
「マルゴ!」
その瞬間、背後で恐ろしい悲鳴が上がった。そしてエレが床に膝をつき、ふるえながらマルゴの頬に額を押し当てた。 かすれ切った声がつぶやいた。
「し、死んでないよね」
ヴィクトールが苦しげに答えた。
「生きている。 乱暴されたが」
イヴォンヌが低くささやいた。
「二階の寝室に運んで。ベッドに寝かせて。エレはお湯をわかしてね」
エレはぎゅっと眼をつぶった。 後に従っていたローゼンが歩み寄って身をかがめ、上着ごとマルゴを抱き上げた。
城に連れ戻されてから四日間、マルゴは一言も口をきかず、ほとんど身動きもせずにベッドに横たわっていた。 エレは、あまりの取り乱しようにマルゴに近寄らせてもらえず、空いているジルベールの部屋に行くように言われて、泣きながら幾度も幾度も復讐を誓った。
「あの、あの悪党ども! 見つけたら絶対殺してやる! 八つ裂きにしてやる!」
五日目の朝、看病に疲れたイヴォンヌが、赤い目をこすりながら起き出してきたとき、階下で物音が聞こえた。 こんなに早く……ジョゼだろうか。 眉を寄せたイヴォンヌが階段を下りかけると、下の広間をマルゴが歩いているのが見えた。
足音を聞きつけて、マルゴは顔を上げた。 心持やせてはいるが、表情は前と変わらない。 おだやかな微笑を浮かべて、マルゴは挨拶した。
「おはよう、母様。 もうパンは焼いたし、牛乳もしぼったわ。 スープ作る?」
信じられない気持ちで、イヴォンヌは階段を下りきり、マルゴに近づいた。
「起きて大丈夫? 気分悪くない?」
マルゴはゆっくり首を振った。
「ないわ」
でも目つきが変だ・・・そばで見て、イヴォンヌはわずかな異変に気づいた。 夢見るようだった黒い瞳に、表情がない。 しおれた花のように、マルゴは生気を失って見えた。
ヴィクトールと二人きりになると、イヴォンヌは首を振ってささやいた。
「あの子の眼はすわっているわ。 表面は傷が癒えたように見えるけれど、それは私たちにこれ以上心配をかけたくないからなのよ。
これまでよりもっと可愛がって大事にしてやらなければ。 本当になんて可哀想に。 たった十五歳にしかならないのに……」
悲劇は尾を引いた。 八ヵ月後、マルゴは男の子を出産した。 ヴィクトール子爵はマルゴの気持ちを考えて里子に出したが、数週間後にそっと様子を見に行ったマルゴは、赤ん坊が自分にそっくりなのに胸を打たれて、引き取って帰ってきてしまった。
父親の罪を償いたいとでも思うのか、赤ん坊はおとなしく、丈夫で、手のかからない子だった。 マルゴは子供をオーギュストと名づけたが、なぜかタンタンと呼びならわされて、それが通り名になった。 エレは胸が痛むほどタンタンをかわいがった。 なぜと聞かれると、エレは決まって答えるのだった。
「うんとかわいがって女性好きにしておけば、悪い男にはならないもの」
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