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黄金の日輪を越えて

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第7章 立ち向かえ!



 一見、以前の穏やかな日々が戻ってきたように見えた。
 しかし、マルゴの潜在意識には、本人さえ想像できないほどの恐怖と憎しみが深く根を張っていた。
 春は農作業が忙しい。 さいわい良い天気が続いて、ヴィクトールは作付面積を増やすことを決め、臨時に人を雇った。
 その臨時雇いは、茶色の縮れっ毛としゃくれた顎を持つ陽気な男だった。 働くことはよく働くのだが、自分の才覚を鼻にかけるところがあり、イヴォンヌはあまり気に入っていなかった。 エレにいたっては、はっきりそのジャックという男を嫌っていた。
 庭外れの小屋で、マルゴが山羊の乳をしぼっていると、手元が暗くなって桶に影が射したので、誰かが入口に立ったのが分かった。
 首を曲げて振り向いたマルゴの前に、藁を一筋口に噛んだジャックが立ちはだかった。 唇をまげてにやにやしている。 その血走った目つきに、マルゴは覚えがあった。
 藁をぺっと吐き出すと、ジャックは高い声で言った。
「誰もいねえぜ。 よく確かめたんだ」
 じりじりと、マルゴは山羊の横を抜け、後ろに下がった。 ジャックは追った。
「おめえ、いい女ぶりだな。 あんなガキがいるんだ。 俺と仲よくしたってかまわねえだろう?」
「離れて」
 マルゴは声をかすれさせた。
「そばに寄らないで」
「気取るんじゃねえ!」
ジャックは突然怒り出した。 握った拳が震えている。 昔のいやなことを思い出したようだった。
「俺を振ろうってのか。 そうはさせねえ。 俺のもんだ。 おめえは逆らえないのさ」
 そう言うなり、ジャックはマルゴに飛びかかった。 そして、容赦なくぐいぐいと喉を締めつけた。 そのとたん……
「うげっ」
 異様な叫び声が小屋に響き渡り、右往左往していた山羊の背中に、ぱっと血しぶきが広がった。
 マルゴは小刻みに震えながら、斧を板壁に寄りかからせて、血にまみれた手を、倒れている男の上着でぬぐった。 そのとき、背後から声がかかった。 緊張を隠しきれないが、はっとするほど優しい声だった。
「その服、私が洗ってあげる。 大丈夫だよ、マルゴ。 私が守る。 こんなときの身の守り方を教えてあげる!」

 頭を割られたジャックの死体が発見されたのは、村はずれの井戸のそばだった。 酔ったあげくに誰かと喧嘩して殴り殺されたのだろうと、人々は噂した。 事件はさまざまに取りざたされたが、もちろん誰一人、物静かなマルゴを犯人と思う者はいなかった。

 その翌日から、エレの特訓が始まった。 ジルベールの不在で空いている納屋の二階で、二人の少女は真剣な顔で向かい合った。 手には薄い木切れが握られていた。
「相手が正面から来るときは簡単」
 そう言って、エレは袖口から木切れを抜き、腕をぱっとひらめかせた。
「こうやって水平に切りつけるんだ。 首の横だよ。 ここには太い血管が通っていて、切ると噴水のように血が吹き出る。 あっという間に身動きできなくなるよ」
 言われたとおりに、マルゴはできるだけ早く手を動かした。 エレは首を振った。
「そんなスピードじゃ逃げられちゃう。 練習しよう。 素早くできるように」

 こうして、一ヶ月も訓練すると、マルゴは喉切りの名手になった。 力の弱い者が抱きすくめられようとしたとき、相手を仕留めるには一瞬の隙を突いた喉切りしかない。 二人の娘が納屋の上で必殺の鍛錬をしているとは夢にも思わず、両親はエレが日がな一日出歩かなくなったのを喜んでいた。

 だが、マルゴの良心は、ちくちく痛んでいた。 できるなら人殺しはもうやりたくない。 男性に触れられたとたんに逆上することがなくなれば、相手をなだめることができるかもしれない。
 こんなとき、助けを求められるのはフィリップだった。 だから、彼が町の噂話と美しい櫛をみやげに尋ねてきたとき、そっと裏庭に呼び出して頼んだ。
「フィリップ、あのね、何の責任も取らないでいいから、相手をしてくれない?」
 少しの間、フィリップは何のことかわからない様子だった。 マルゴはあせった。
「つまり、祭りの日に男の子と女の子がすることよ。 納屋や、草むらで」
 たちまちフィリップの目が大きく見開かれ、両手が後ろに回って強く握りしめられた。 どう見ても、途方に暮れているようだ。 マルゴは困って泣きそうになった。
「助けてよ、フィリップ! 私……私ね、男の人が怖くてしょうがないの。 でも、あなたなら耐えられるかもしれない。 昔から知ってて気を許してるから。 ねえ、お願いよ」
 フィリップの表情が一瞬くしゃくしゃになった。 陽気で気軽な彼としては珍しく数秒間ためらっていた後で、ようやくのろのろ動き出して、マルゴの後についていったが、納屋の藁の上ではキスがやっとで、マルゴの肌に触れることさえできなかった。
 眼をつぶり、歯をくいしばってそのときを待っていたマルゴは、あまりの失望に泣き出してしまった。 しゃがみこんだマルゴに、フィリップは平謝りした。
「ごめん、ごめんよ。、マルゴ。 どうしてもだめなんだ。 こんなこと一度もなかったのに……」
「私のこと汚いと思ってるんだわ」
「ちがうよ!」
 フィリップとは思えない鋭い声に、マルゴははっとして顔を上げた。 フィリップは拳を握りしめ、肩を荒い息で上下させていた。
「ちがうよ、マルゴ、違うって! わからないのかい? 好きだから、君のこと考えただけで胸が一杯になるから、そんな苦しそうな君の顔を見たくないんだ。 つらいんだよ!」
 そう叫びながら、フィリップは納屋を飛び出していった。


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