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黄金の日輪を越えて

第8章 縁談
「死ぬ!」
「静かに。 あなたは、うちで一番我慢強いはずでしょう? 木から落ちて骨を折ったときでさえ、泣き言ひとつ言わなかったのに」
「これは死ぬよ、母様! 世間の女は、よくこんなきゅうくつなもの着て動けるね!」
まず長いシュミーズを頭からかぶり、それからコルセット、胸を強く抑えつけるビスチェ、と次々着せられて、エレは悲鳴のあげっぱなしだった。
「下はまだましよ。 後はこのスカートをはけばいいだけ。 そんなに騒がないの。 マルゴが着るの毎日見てたでしょう? 同じ部屋の同じベッドにいるんだから」
「見てなかった。 興味ないもん」
「まったく」
イヴォンヌは苦笑いしながら、エレの頬をちょんとつついた。
「言葉遣いのほうはどうかしら。 大公閣下の前で、男言葉でしゃべらないでよ」
「そんなことしないよ。 ちゃんとできる」
スカートの裾をつまんで片脚を後ろに引き、エレは優雅にお辞儀してみせた。
「大公閣下にはごきげんうるわしゅう」
1階の広間では、みんな疲れて椅子に座り込んでいた。 古い城の修理と大掃除で一週間以上働きづめで、男たちは足がふるえるほど消耗していた。
それもなんとか間に合った。 予定では、今日の午後にコンデ公爵の一行がこの城を訪問する。 表向きの目的は、軍隊用の兵隊集め、だった。 乱れた髪をかきあげながら、ヴィクトールがまず腰を上げた。
「こうしてはいられない。 わたしもそろそろ着替えをしないと」
「何人おいでになるんでしょうね。 公爵様ともなると、お付きの数だって半端じゃないですよね」
下男のジャン・ポルが心配そうに尋ねた。 ヴィクトールの表情が曇った。
「そうなんだ。 奥方と侍女たちはレンフラール城が預かってくれるが、コンデ公とご子息はどうしてもこちらに泊まりたいそうなんだ」
「まとめてあっちの城に行けばいいのに」
階段から鈴のような声が降ってきた。 なにげなく顔を上げたヴィクトールの眼が大きく見開かれた。 ジャン・ポルは丸く口をあけたまま、固まった。 エプロンで手を拭きながら裏口から入ってきたマルゴでさえ、思わず足を止めて、すべるように階段を下りてくる姿に、ただひたすら見とれた。 うっとりと眼をうるませながら、マルゴは思わず叫んだ。
「なんてきれい…… 夢みたい!」
「悪夢よ。 私にとっちゃ」
ぶつぶつ言いながら、エレは乱暴にスカートをたくしあげて、階段を駆け下りた。 よく鍛えたすんなりした脚が太腿までちらちら見えて、ヴィクトールは赤面した。
「こらこら、もうズボンをはいているわけじゃないんだから、もっと静かに歩きなさい」
トン、と音を立てて1階の床に着地すると、エレは舌を出した。
「かかとのついた靴なんて履いたの初めて。 殿様たちが来るまで脱いでていい?」
「いいわよ。ただし足を汚さないようにね」
後から階段を下りてきたイヴォンヌが注意した。妻に近づいて胸に抱き寄せ、ヴィクトールはそっと耳元でささやいた。
「大変な変わりようだな。 じゃじゃ馬がお姫様になった」
「お化粧はほとんどしてないのよ。 元がいいから」
「それにしても」
ヴィクトールはそっと息を吐いた。
「心配になってきた。 美しすぎるんじゃないか? 騒ぎが起きなければいいが」
2時になって、前庭ががやがやと騒がしくなってきた。 ハイヒールを気にしながら、広間の椅子にちょこんと座っていたエレは、マルゴと手をつないで窓の横に行き、そっと顔を出して外をのぞいた。
見たこともない大きな馬車が、何台も繰り込んできた。 踏み台が降ろされ、刺繍のついた上着姿の侍従がうやうやしく手を差し伸べる。 やがて馬車の扉が開いて、貴族たちが降りてきた。 とたんにエレは爆笑しそうになって、あわてて手で口を押さえた。 顔を真っ赤にしているので、マルゴは急いでたしなめた。
「お願いよ、エレ。 笑うならここだけにして。 面と向かって吹き出したりしたら、縁談どころじゃなくなっちゃう」
「でも……」
声までおかしさに震えていた。
「見てよ、あの格好! あのカツラ! まるでドブに落ちた羊みたい…… プーッ、クックックッ」
「エレ!」
二人がもみ合っている間に、大勢の人が前庭に降り立った。 小姓たち、従者たち、数人の侍女たち。その大勢の人々の真ん中あたりに、ひときわ大柄な若者が立っていた。 周りの騒ぎに目もくれずに馬を撫でて水をやっている。 質素な服装からみて、馬丁だろうと思われた。
声を出さないように口を押さえたまま、エレは再び、おもしろいものを見物しようとして窓から首を出した。 やがて、他の馬丁が馬を馬車から外し始めて、若者は暇になった。 彼はのんびりと周囲を眺めわたしていたが、視線を感じたらしく、ふと顔を上げた。 その眼が、エレの眼と合った。
5秒ほど、二人はまばたきもせずに見つめ合った。 若者は黒い髪をしていた。 がっしりした肩の上に強そうな首とよく日に焼けた浅黒い顔が載っている。 精悍な顔立ちだ。 ナイフでざっくり切り込んだような、鋭すぎるほど鋭い顔。 だが、焦茶色の眼には、厳しい造作をおぎなって余りあるほどのいきいきした優しさがたたえられていた。
エレの口元が自然にほころんで、若者に微笑みかけた。 若者も微笑み返した。 窓の中と外で、目に見えない糸がつながった。 そのとたん、背後から声がかけられた。
「エレ! お客様にご挨拶だ」
子爵夫妻にはさまれるようにして、エレは玄関前の石畳に出た。 すると前庭のざわめきは嘘のように消え、辺りが静まり返った。 さわさわと吹く風の音が、はっきり聞こえるほどの静けさだった。
馬車のそばにいた丈高い貴族が、少しの間まじまじとエレを見つめていた。 それから急いで向き直り、横にいた着飾った少年と一言ニ言話し合った。 そして、エラン侯と三人そろって玄関に近づいてきた。 ヴィクトールが帽子を取って一礼したので、イヴォンヌとエレも足を引き、ていねいにお辞儀した。
「何のおもてなしもできない貧乏城で……」
ヴィクトールの挨拶をさえぎって、エラン侯(フィリップの父)が口髭をひねりながら紹介した。
「こちらはコンデ公爵閣下。 兵隊集めにいらしたのです」
コンデ公爵・・・国王の叔父で大富豪・・・エレは、つつましやかに顔を伏せながら、横目でそっと観察した。
すると、公爵は思いも寄らぬ態度に出た。
「これはこれは。 なんて可憐なバラだ!」
そう言うなり、小柄なエレを軽々と抱き取って、頬に音を立ててキスしたのだ。
エレは眼をつぶり、息を止めた。 みぞおちに蹴りを入れないようにするには、大変な忍耐が必要だった。
こーの色気おやじ! と心の中で罵りながら、エレは止めていた息を吸い込んだ。 とたんに思い切りむせてしまった。 どうなってるんだ、こいつらは!・・・ やっと降ろしてもらった後、エレは目が回りそうになっていた。 この大貴族は、香水の大瓶を尻の下に敷いていたとしか思えない。 体中から強烈な香料の匂いが立ちのぼり、エレは頭痛がしてきて、無意識に手を鼻に当てた。
コンデ公はエレの反応に気づかず、背後を手で指して言った。
「これは息子のレオンだ。よろしく」
その少年を一目見たとたん、エレはどうにも笑いをこらえきれなくなった。 最高級の絹の上着をわざわざ切り裂いて、レースの房を3段にわたって出している。 大きなちょうちん型半ズボンにも、同じ細工がほどこされていた。 こんな馬鹿げた衣装を見たのは初めてだ。 身をよじって笑いそうになって、エレは必死で扇子の陰に顔を隠した。
レオン少年は、父親より敏感らしく、むっとした表情でエレをにらんだ。 淡い茶色の髪が渦を巻き、眼は明るい褐色で、なかなか整った顔立ちをしている。 これが婚約相手らしかった。
エレは深く息を吸い込み、なんとか普通の顔に戻って、レオンに頭を下げた。 一応レオンの方も軽く顎を引いて挨拶した。
「道中は熱くて大変でしたでしょう。 どうか中に入って湯でも使ってください」
うれしい提案だったらしく、貴族たちは先を争うように城へ入っていった。 とたんにエレは壁にもたれて爆発的に笑い出した。 腹を抱えて目に涙までためているので、見かねたヴィクトールが家の横に引っ張っていった。
「こら!」
「だって父様……」
言葉が続かない。 遠慮なしに大笑いする娘を見て、ヴィクトールの頬まで思わずゆるんだ。
「確かに妙な格好だが、できるだけ我慢しなさい。 おまえだって、パリに出れば田舎者と笑われるんだよ」
「そうだね」
エレは素直にうなずいた。
藁をひとつかみ手に持ったまま、マルゴはおろおろ気をもんでいた。 先ほど牛小屋の横を通りかかって、呻き声が聞こえたので入ってみると、雌牛のバベットが産気づいていたのだ。
間の悪いことだった。 いつもなら下男のジャン・ポルか、父のヴィクトールが世話をするのだが、今日はてんやわんやで二人とも牛どころではない。 そういうときに限って、バベットは難産の気配だった。
どうしよう・・・泣きそうになったマルゴの頭に、ふとひらめいた。 あんなにたくさんいる公爵の従者たち。 一人ぐらい手助けしてくれないだろうか。
ちょうど小屋から顔を突き出したとき、男が通りかかった。 そびえ立つほど背が高い。 普段なら怖くてとても話しかけられないが、今のマルゴは必死だった。 その男の袖を捕まえて、マルゴは小声で問いかけた。
「あの、牛に詳しい?」
男は立ち止まり、深い、よく響く声を返してきた。
「牛も馬もよく知ってるが」
マルゴは躍り上がって男を引っ張った。
「子牛が生まれそうなの。 私じゃ力が足りなくて。 来て!」
狭い小屋に入ると、男の大きさは際立った。 天井につかえそうだ、とマルゴは驚いた。
彼は、苦しんでいるバベットを見ると表情を引き締め、早口でマルゴに言った。
「ロープが要る。 丈夫なやつだ」
「ええと」
急いでマルゴが探し出してきたロープの端を持って、男はバベットに近づいた。
「よしよし、すぐ楽にしてやるからな」
白目をむく牛の後ろに回って、男は腕まくりし、子宮口にゆっくりと逞しい腕を差し込んだ。 中で子牛にロープを巻いているらしい。 マルゴは固唾を飲んで見守った。
男は腕を抜き、牛の陣痛に合わせてロープを加減しながら引いた。 すると間もなく小さな蹄が見えてきた。 力が入って真っ赤になった顔をマルゴに向けて、男は言った。
「逆子だ」
だからうまく出てこないんだ・・・マルゴは祈りながら、男の手元を見つめた。
最初の関門を通り抜けると、後は魔法のようにうまくいった。 羊水とともに、子牛は藁の上にすべり落ちてきた。 涙が出るほどほっとして、マルゴは藁で子牛をこすり、早くかわかしてやろうとした。
バベットはすっかり落ち着いて、首を曲げて子牛をなめていた。 しゃがんだ姿勢で、頼もしい男を見上げながら、マルゴは心からの感謝を口にした。
「本当にありがとう! あなたが来てくれなかったら、バベットは死んでたかも」
男は微笑して、出ていこうとした。 あわててマルゴは立ち上がり、彼の上着の裾を握った。
「待って! お礼をしなくちゃ」
「気にするな」
「そうはいかないわ。 名前を教えて。 父様に言わなくちゃならないから」
「父様?」
男の黒い眉がせばめられた。
「君は……マルグリット・ド・サンマルタンなのか?」
フルネームで呼ばれて、マルゴはびっくりした。
「そう。 でも、どうして私の名を?」
一瞬間をおいて、男は低い声で言った。
「それは……」
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