目次

黄金の日輪を越えて

第9章 すれ違い
大貴族ともなると、楽師まで連れ歩いているのだった。 3時を過ぎて、身支度が整うと、広間で楽団が演奏を始め、くつろいだ貴族たちが窓辺や木陰で涼んでいる姿が見られた。 レオンは、楽団の近くに陣取って、小姓となにやら話し込んでいた。 水色の派手な衣装から、いくらかおとなしい紺色の服に変えている。 エレはため息をつき、背筋を伸ばして近づいていった。 エレを認めると、レオンの表情が硬くなった。 できるだけ無邪気に見せながら、エレは彼に微笑みかけた。「狩はされますか? この辺りには、キジやウズラが多いんですよ。 ああ、熊もいるようですわ。 見たことはありませんが」
乾いた唇をなめて、レオンは答えた。 声まで硬く、抑揚がなかった。「狩は、よくやります」
そばにいた小姓が、座を持たせようと思ったのだろう、さりげなく口を挟んだ。「森が多くて、きれいなところですね。 河のほとりなんか絶景でした」
大好きな故郷をほめられて、エレの顔がかがやいた。「いいところでしょう? 毎朝太陽が昇ると、うれしくてしかたがないの。 今日は何をしよう、どんな楽しみを見つけようって」
小姓はエレに見とれていた。 口がかすかに開いている。 それに気づいて、レオンは彼の脚をうしろから軽く蹴った。 はっと我に返って、小姓は小声で提案した。「せっかく音楽があるんですから、踊りなどいかがですか? ええと……今やってるのはメヌエットですね」
メヌエットはこの地方の農民の踊りが元になっている。 もちろんエレは承知した。 体を動かすのは大好きだ。 ところがレオンは、雷雲のように暗くなって、ひとこと呟いた。「メヌエットは……踊れません」
小姓がぎくっと縮まったのを見て、エレはかわいそうでならなくなった。 さっきから気を遣っているのに、レオン少年はあまりにも間が悪い。 やたら無愛想だし。 腹が立ってきたエレは、不意に小姓の手を取って明るく言った。「じゃ、私たちがお手本を見せましょう。 すぐ踊れるようになりますわ」
はっとした小姓は、それでもエレに引かれるままに踊りだした。 二人は軽い足取りで広間を巡った。 楽しい。 この子、なかなか可愛いし、とエレは思った。 これで足さえ痛くなければ。 二人がレオンのところに戻ってくると、彼は完全に怒っていた。 唇を噛んで、レオンがいきなり杖を小姓に振り下ろしたので、エレは棒立ちになった。 二度目に殴ろうとしたレオンの腕を、エレはぱっと受け止めた。 そして、眼を怒らせて叫んだ。「やめなさいよ、この、暴力男!」
レオンの目が、裂けるほど見開かれた。 小姓が固く眼をつぶったので、エレは自分がとんでもないことを口走ったのに気づいた。 ついに化けの皮がはがれた。 エレはスカートを持ち上げると、一目散に庭に飛び出した。
納屋に飛び込んで、エレは大きく息をついた。 やっぱり付け焼刃は無理がある。
「お嬢様になれったって、できっこないよ」
途方に暮れて、思わず独り言が出た。 がさっと音がしたので、エレは振り向いた。客がたくさん来たので馬小屋だけでは足りなくて、納屋にも何頭か入れてある。 そのうちの一頭の横に人影が見えた。 かがみこんで蹄の点検をしているようだった。 エレは、そっとその影に近づいた。 横顔に見覚えがあったからだ。 そう、この人はさっき庭で、馬に水をやっていた、あの人だ。 肩に手をかけると、若者はびくっとして振り返った。 立っているのがエレとわかると、日に焼けた顔がレンガ色に染まった。 エレは、若者のそばに座りこみ、「この馬はジョフロワというのよ」
と教えた。
若者は、非常に低いバスの声で言った。
「あなたはここのお嬢様でしょう? 広間に行かなくていいんですか?」
エレはふくれっ面になった。「行ったんだけどね。 ちょっと嫌なことがあって」
ふてくされて、エレは藁の上に足を投げ出した。「なんで私が、あんな女のできそこないみたいなのと結婚しなくちゃいけないのよ。 あの子、両足にスカートをはいているのよ」
若者は吹き出した。「あれはパリで流行している服なんです。 スカートじゃなくて足飾りなんですよ」
「何にしても、みっともないわよ」
と、エレは言い切った。
若者はやわらかく言った。「服は他にもありますよ。 もっと飾りの少ないのがいくらでも。 問題は本人でしょう? 彼は器量よしだ。 ちがいますか?」
エレはちょっと考えた。「そうね、まあまあね。 でも、うちの兄のほうがきれいよ」
証明するために、エレは二階に上がって、一枚の絵を取ってきた。 それはジルベールの描いた自画像だった。 若者は、暗い背景に浮き出た美貌をつくづくと眺めた。 無邪気な誇らしさを感じて、エレは楽しげに言った。「きれいでしょう? 頭もいいの。 学校で一番なんだって」
うちにも自慢するものはあるんだから、とエレは考えていた。 かがみこんで説明するエレの金髪が、若者の頬に触れた。 若者は、そっとその髪を指で撫でた。 エレは、うれしくなって彼を見た。「私の髪が好き?」
「ええ」
と、若者は低く答えた。 エレは、いっそう近く若者に寄り添った。
「私はエレ。 あなたは?」
少しためらった後、若者は小声で言った。「ジャンといいます」
「あなたはいい匂いがするわ」
と、エレは無邪気に言った。 エレはまだ、その言葉がどんな重大な含みを持っているか、気づいていなかった。
「公爵は、まるで香水の池に落ちたみたいだったわよ。 息が止まるかと思った」
ジャンは思わず笑った。 彼の笑顔は生き生きして、とても感じが良かった。「長旅で汗をかいたから、たっぷり香水を使って隠そうとなさったんですよ」
「ああ、そうなの」
エレはようやく納得した。 そして小さく呟いた。「ともかく、公爵は明るいし、楽しそうな人だわ。 でもレオン・ルーヴィニュイは……」
気がかりそうに、ジャンはエレの顔を眺めた。「何かあったんですか?」
「あの人は、ちょっと怖い」
「怖い?」
意外そうなジャンの声に、エレは眼をぱちぱちさせた。「お付きを杖でなぐったの」
「ああ……」
ジャンの視線が揺れた。「かんしゃく持ちなんです。 でも人はいい。 おだてれば何でもしてくれますよ」
エレは軽く吐息を漏らした。「そう。 どっちみち結婚しなくちゃならないなら、相手を少しでもよく思えたほうがいいわね」
だんだん気分が滅入ってきたので、エレは無理に明るい声を出した。「私が結婚すれば、ジルは上級学校に行けるし、マルゴも持参金が作れる。 みんなが喜ぶことだから、きっといいことなのよね」
ジャンは馬に眼をすえたまま、何も答えなかった。 エレは体を伸ばして、ジャンの頬に軽くキスした。「ありがとう、話し相手になってくれて。 じゃ、またね」
背景:Kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved