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黄金の日輪を越えて

第10章 破談
その夜の晩餐会でも、エレの気分は悪くなる一方だった。 慣れない靴、胸を締めつけるドレス、やたら明るいロウソクのもとで、ぎらぎらと輝く宝石の照り返し。 ナイフを手から取り落としそうになって、エレは危うく自分を取り戻し、隣の話題に耳を傾けた。
レオンが一人おいた向こうの男性としゃべっていた。「田舎は空気がいいのだけがとりえだな。 道を通る連中が石炭のように黒光りしているようだが。 風呂に入ったことないんだろう」
大声で、あてつけがましく話している。 どうせ私は日に焼けてるよ、と、エレは獰猛に考えた。 右隣を見ると、気の弱そうな青年がしょんぼりと座っていた。 彼の手がインクに染まっているのに気がついて、エレは陽気に話しかけた。「「手紙か何か書いたんですか?」
青年は、ぽっと頬を赤らめて、もじもじした。「いえ……徴兵の書類を作っていまして」
エレは眉を寄せた。「根気のいる仕事ですね
「そうなんです」「字を書くとどうしても汚れますよね。 私なんかいつも袖を真っ黒にすってしまって」
青年は不意に身を乗り出してきた。「エレーヌ様は何をお書きになりますか?」
エレはたじろいだ。 マルゴなら美しい詩をいくつも書いているが……「大したものじゃありません。 本の感想とか、友だちへの手紙とか」
「本をお読みになる!」
青年はますます嬉しそうになった。「どのような?」
「ダンテ、キケロ、それにローランの歌や、トリスタンとイズーなど」
「それはそれは! 実はわたし、何冊か本を持ってきているのですが、もしお読みになりたいなら」
たちまちエレの顔が輝いた。 田舎には図書館も本屋もない。 エレは新しい本を読みたくてうずうずした。「うれしいです。 お貸しねがえれば」
「差し上げますよ! もし……」
「庭に出て、少しお話しませんか?」
不意に遮られて、エレは仕方なく首だけ回した。 もう食事は終わり、人々が席を立ちはじめていた。 レオンが傍に立って、手を差し伸べていた。 エレは、軽くその上に手を置いて、できるだけ優雅に立ち上がった。 外は風がなく静かで、眠くなるようなヨタカの声がかすかに響いてきた。 エレが襟元をくつろげてハンカチであおいでいると、横に並んだレオンが咳払いして、ぎこちなく口を切った。「あの、何かほしいものがあったら、僕に言ってください。 あんな書記なんかじゃなく」
エレの手が止まった。「ご好意で申し出てくださっただけです。 本を貸してくださるって……」
「だから、僕に言ってくれたら、手に入るものは何でも贈ります。 他の人間からもらわないでください」
息が詰まる・・・・大きく開けた戸外にいるのに、エレはひどい圧迫感を感じた。 上流社会は、こういうものなのか。 結婚するとは、夫の腕の中に窮屈に閉じ込められることなのか! だめだ・・・・もう耐えられなかった。 野生の鳥は、籠に入れられたら暴れ疲れて死んでしまうと聞いた。 今の自分もその状態だ。 見上げた空に、すっと星が流れた。 一瞬の残像に、エレの心が揺れた。 そのとき、とんでもない願いが脳裏をかすめた。〔あの人が欲しい〕 とたんにエレの顔から血の気が引いた。 胸が強ばり、膝がふるえ出した。 頭を振って追い払おうとしても、その願いはどんどん根を張って、蔦のつるのように心臓を締めつけはじめた。(一度だけ。 一度だけでいいから、あの人を私に下さい)
もう意志の力は及ばなかった。 エレはレオンに微笑みかけ、自分が嫌になるほど甘い声でささやいた。「ええ、そうします。 あなたの言うとおりに」
レオンの目がぱっと輝くのを見て、自己嫌悪に陥りながらも、エレは作戦を決行した。「今夜はお疲れでしょう? 私も疲れました。 ちょっと頭痛がするので、これで休みます。 まだ当分滞在なさるんですから、また明日、楽しく遊びましょうね。 町で流行している遊びを教えてくださいね」
レオンはうなずき、エレの手を取って優しく唇を当てた。 良心のうずきに苦しみながら、エレは家に入っていった。 階段を半分上ると、エレはすぐ靴を脱ぎ捨てて、踊り場の窓から外に出た。 ドレス姿なのでちょっとやりにくかったが、それでもするすると蔦を伝って裏庭に降り、スカートの裾を結んで、音もなく走り出した。
思ったとおり、ジャンはまた納屋にいた。 物思いに沈みながら馬を撫でている。 その姿が目に入ったとたん、エレは何を考えるゆとりもなく、駆け寄るなり飛びついて思い切り抱きしめてしまった。
ジャンは茫然となった。「どうしたんです!」
低音の声がかすれた。 エレは説明しようとしたが、出てきたのは声ではなく、涙の滝だった。 泣きじゃくるエレの髪を、大きな手がそっと撫でた。「落ち着いて、話してごらんなさい」
この広い胸。 低くて穏やかな声。 ジャンの何もかもが、エレの心を直撃した。 やみくもにジャンの背中に手を這わせながら、エレは息だけでささやいた。「「私をどう思う?」
たちまち若者の胸が不規則に上下しはじめた。「何を言うんです!」
「私が欲しい?」
ささやきは熱さを増した。 ジャンの体に明らかな反応が現れてきたからだ。 ジャンは両腕でエレを押し離そうとした。 しかし、とても本気とは思えぬ弱い力で、すぐエレに捕らえられ、背後に両手とも回されてしまった。「抱いて。 お願い。 あなたが必要なの」
どうも世の常とは逆だ、とエレにもわかっていたが、成り行き上やむをえない。 ためらわずに若者を押していって、ついに藁の上に倒してしまった。 ジャンは観念した。 短い息をつきながらエレを引き寄せ、ぎこちなく唇を重ねた。 彼の口は、かすかにカルヴァドスの味がした。 ジャンは実に不器用だった。 大きな手はやさしく動いたが、体重をすべてエレにかけてしまったので、小柄なエレはつぶれそうになった。 それでも大きな体に包まれて、エレは幸せだった。 ひとつになった瞬間には頭のてっぺんまで鈍く痛んだが、荒馬から何度も落ちた経験と比べれば、どうということはなかった。 最初は、あっという間に終わった。 こんな火花みたいなもの? ややあっけなく感じながらエレが身を起こそうとすると、ジャンが長い腕を伸ばして引き止めた。「待って」
そして再び抱きしめられた。
二度目は強烈だった。 嵐にもまれる小舟のように揺り動かされて、エレは息もつけなくなった。 髪まで汗びっしょりになって、エレは力なく横たわった。 胸に男の顔が埋まっている。 やがてその顔が上がり、エレにうっとりするような口づけをした。腕を支えに起き上がろうとして、ジャンは不意に動きを止めた。 二人の視線が合った。 ジャンは真っ赤になった。 しかし、それは恥ずかしさのためではなかった。 彼は、ぎょっとするような力で、エレの手首を捉え、かすれた声で叫んだ。「これが初めてだったのか? 言うんだ!」
「そうよ」
と、エレは答えた。 とたんに、ジャンの指に一層の力が加わった。 手首が折れるかと思われるほどの力に、エレは青ざめた。
すれすれまで顔を近づけ、ジャンは荒々しく言った。「今夜のことを誰にも言うな。 言わないと誓うんだ。 さあ!」
ジャンは別人のようだった。 穏やかな見かけの奥に隠されていた原始的な野性に、エレは圧倒された。 そこでエレは思い当たった。 この人はコンデ公の馬丁だ。 公爵の息子の許婚者から処女を奪ったとわかれば、鞭打ちぐらいではすまないだろう。「ええ、誓うわ」
哀しい気持ちでエレが答えると、ジャンはようやく手首を離した。 立ち上がって服装を整えてから、エレはもう一度、最後のキスをしようとした。 だが、ジャンが顔をそむけたので、唇は頬をかすめただけだった。
翌朝早く、コンデ公の一行は不意にサンマルタンの城を出て、レンフラール城に移動した。 ヴィクトールによると、夜中の2時過ぎにレオンが父親にねじこんで、もっと設備のいい場所に行きたいと騒ぎ立てたということだった。
ヴィクトールは、考え込みながら、元気のないエレの顔をそっと両手ではさんだ。「エレ、 随分努力していたようだったが、やっぱり無理なんじゃないか?」
エレの口が驚きに開いた。「え……? もしかして、断っても……いいの?」
ヴィクトールはうなずいた。「向こうはおまえを切り札に使いたいんだろうが、まだ16歳だ。 結婚を急ぐ年じゃない。 まず学校へ行ってからということで、ひとまず断ることにしよう」
「ありがとう!」
エレは夢中で飛び上がって、父の首に抱きついた。
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