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黄金の日輪を越えて

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第12章 新しい出発




 午後遅く、エレは《エトワール》に乗って帰ってきた。 一見何の変わりもなく、普通に振舞って、その晩は夢を見ることなく眠った。
 だが翌日から、確実に何かが変わった。 あんなに嫌がっていた女の服を着るようになり、母親から刺繍を習いはじめた。 これまでは実用的でないと見向きもしなかったのだが。 
「ねえ、見て」
 イヴォンヌに言われて窓から覗いたヴィクトールは、エレがマルゴと肩を寄せ合って、客間のタペストリを修理している姿をながめて、目を細めた。
「どうやら、うちの山猫はだいぶおとなになったようだね」
 イヴォンヌはうなずいた。
「女らしくなったわ。 自分の美しさを隠さなくなった」
「それはそれで騒ぎの元だが」
「フィリップが言うのよ。 エレを社交界に出したい、そうしたら求婚者がどこまでも列を作るだろうって」
 まんざら誇張でもないので、ヴィクトールは頭が痛かった。 エレの美しさは、顔立ちだけではなかった。 髪をなにげなくかき上げる姿、ふと横に視線を流すしぐさ、指の動き、腰の揺れ、どれを取っても、匂い立つほど風情があり、気がつくと目が離せなくなっている。 自覚がないだけに、エレの魅力はは危険だった。 その名前の元になった、トロイのヘレンのように。
 結局、ヴィクトールが迷っているうちに、社交界の話は立ち消えになった。 そのわけは、4ヵ月後にエレの腹が目に見えて大きくなってきたためだった。 妊娠がまちがいないとわかると、ヴィクトールは書斎にエレを呼んで、静かに問いただした。
「父親は誰なんだ?」
 エレも静かに答えた。
「私が好きになった人」
「レオン・ルーヴィニュイか?」
「いいえ」
 あまりにきっぱりした否定だったので、ヴィクトールはレオンを疑うことはできなくなった。 だが、彼でなければ誰なのだ。 見当がつかない。 エレは絶対に相手の名前を言おうとしなかった。
 陣痛が始まった日は、朝から雨が降っていて、昼過ぎになると、春には珍しい土砂降りとなった。
 物悲しい雨の音を聞きながら、エレはイヴォンヌとマルゴに見守られて、客間のベッドに横たわっていた。 客間なら一階で台所が近い。 すぐに湯を持ってこられるので、マルゴもここで子供を出産していた。
 昼過ぎに強い痛みが来た。 だが、それきり止まってしまい、夕暮れどきに再び耐えがたいほどの陣痛が襲ってきた。 ベッドに飛び起きて暴れるエレを、母と義姉が必死で押さえる一時間が過ぎた。
 命がけの出産は、6時ごろにようやく終わった。 額にべっとりと乱れた髪がかかり、出血のため教会の壁のように真っ白な顔になったエレは、かぼそい産声を聞いて、なんともいえない笑顔を浮かべた。
 だが、泣き声は一度だけだった。 隣の居間で、あわただしく人の動き回る音がする。 エレは、重い瞼をこじ開けて、ようやく目を開いた。
 やがて戸口にマルゴの姿が現れた。 しかし、中に入ろうとせず、入口に寄りかかった。 目を真っ赤に泣き腫らしている。 その顔を見たとたん、エレの心の内側で、何かが千切れた。
「エレ……」
 マルゴのかすかな声が聞こえた瞬間、エレは思ってもみない大声で叫び返した。
「なに泣いてるの!」
 マルゴは棒のようになった。 エレは夢中で叫び散らした。
「泣くことなんかない。 どうして泣くの! お祝いしようよ!」
「エレ!」
 エレは強く耳をふさいだ。 聞きたくない。絶対認めたくなかった。
「向こうの部屋にいるのよね。 世話してくれてるんでしょう? 弱いから、だから連れてこられないのよね」
 マルゴは顔中しわになるほど固く目をつぶって天井を仰いだ。 そして、やっとの思いでうなずいた。
「そう…… そうよ、エレ。 そのとおりよ」

 一声泣いただけで天国に召された赤ん坊は、女の子だった。 エレはその子にマドレーヌと名づけ、マドロンと呼びならわした。
 エレは子供が生きていると言い張りつづけた。 よその村へ養女に行ったと言い、赤ん坊の服をせっせと縫って、マルゴに渡した。 それをマルゴは黙って受け取り、屋根裏の行李〔こうり〕にそっとしまっておくのだった。
 ヴィクトールは心配したが、イヴォンヌは、無理に夢から引きはがすことはないと、夫に言った。
「恋人は消え、子供まで失ったのよ。 一度に二つの打撃は耐えられないわ。 もう少し、おとぎ話に付き合ってやりましょう。 あの子が立ち直るまで」

 その年の六月は、なかなか寒気が抜けず、天候不順で、曇りが続いた。 そんな中、もうすっかり元気を取り戻したように見えたエレが、ヴィクトールの部屋に来て、椅子に座るなり、しっかりした声で願った。
「父様、私、修道院に入ります」
 二階の床が抜けても、ヴィクトールはこれほどには驚かなかっただろう。 彼は、思わず手にしていた羽根ペンを娘に投げつけるところだった。
「エレ、自分が何を言っているか、わかっているのか? うちは新教徒だぞ! 修道院は、旧教の悪の巣なんだぞ!!」
「ジルは行ってるわ」
「あいつは勉強しに付属学校へ入っているんだ」
「私はちゃんと誓いをして、尼さんになるの」
 エレは平然と答えた。 ヴィクトールは頭を抱えた。 コンデ公の一行が来て以来、エレが変わってしまったと思う。 こんなことなら、元のお転婆で獰猛なチビさんのままでよかった、とヴィクトールは心から思った。
 またもエレはわがままを通した。 めったに勝手なことは言わないのだが、いったん言い出すと絶対に引かない。 やはり血筋が血筋だからか、とサンマルタン夫妻は悩んだ。
 それでも、イヴォンヌが根気よく説得して、ニ年間は学校で勉強をして、尼僧になるかどうかはそれから決めると約束させた。 それが精一杯だった。
 学校には、マルゴも行くことになった。 その話を聞いたフィリップは、それまで、もう勉強はいやだと言い張っていたことをけろりと忘れて、自分も行きたいと父親にせがんだ。
 こうして三人の若者は、同じ馬車でナントの町に行くことになった。 それは、卒業して故郷に戻るジルベールと、ちょうど入れ違いの旅だった。



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