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黄金の日輪を越えて

第13章 出会い
ナントの女子修道院付属学校で、エレはまたたく間に先生にも生徒にも大人気となった。 目がさめるほど美しいし、はきはきしていて適当に荒っぽいし、気取りがない。 人気者になる条件がそろっていた。
おかげで、マルゴもみんなに親切にされ、心配したようないじめに会うことはなく、居心地いい日々を送った。
ところが、一ヶ月もたたないうちに、途方もないものが故郷から届いた。 ヴィクトールが達筆でしたためた手紙で、すぐに戻ってジルベールと結婚するようにと書かれていた。
ジルと結婚! マルゴは天地が引っくり返ったような気がした。 男という男はすべてだめなのだ。 傍に行くだけで動悸が高まり、手など握られようものなら目の前が真っ赤。 気がつくと相手を思い切り押しのけているか、それでも離してくれないときは袖口にいつも隠し持っている薄刃の短刀で切りつけてしまうというのに!
といって、恩義のある子爵の申し出を断る勇気は、マルゴにはなかった。 でも、私は人殺しです、と打ち明ける勇気はもっとない。
修道院の裏庭で、誰にも相談できずに何時間も悩んだすえ、マルゴは思いつめてしまった。 いっそ死んでしまえば後腐れがない。 そう思いつくと、マルゴはすぐ、ベルトを外して木の枝にかけた。 それから、リスのように身軽に枝にまたがると、ゆっくりと立ち上がり、ベルトを首に巻いて、空中に身を躍らせた。
どのくらい経っただろう。 熱い息を胸一杯に吹きこまれて、マルゴは徐々に意識を取り戻した。 口移しのその息が、マルゴを無理やりこの世に引き止めたのだ。 マルゴはあきらめて、ゆっくり呼吸しはじめた。
首の回りがひりひりする。 ひどい頭痛と耳鳴りがした。
マルゴが自力で息をし始めたのを知って、救い主は口を離し、そっと頬を撫でた。 マルゴは手探りで相手を探して、肩に頭をもたせかけた。 ひどく心細く、泣きたい気持ちだった。
相手も、静かにマルゴに頬ずりした。 動くと、古い布地と埃の混じった懐かしい匂いがする。 ここは修道院で故郷ではなく、エレも身ぎれいにしていることを忘れ、マルゴはサンマルタン城の日々に戻っていた。 エレが元気にあふれて馬を駆っていたころのあの日々に。
間もなく、マルゴは違和感を感じ始めた。 今抱きついているのがエレなら、とっくに小熊のような荒っぽい声が、バカな真似して! と叱りそうなものだ。 体に手を回しているこの人は、本当にエレなんだろうか。
細く目を開けてみて、マルゴは文字通り飛び上がった。 これはエレどころか、女でさえない。
ーーー男だ!!
相手の男は、力いっぱい突き離された形になって、木にぶつかった。 マルゴは、とどろく胸を押さえながら、まん丸く目を見開いた。 そして、第二の驚きに凍りついた。
そこにいたのは、ジルベールだった。 少なくとも、ぼんやりとした目で見た瞬間は、生き写しに見えた。 だんだんはっきり像を結んでも、やはり似ていることに間違いはなかった。 たった一つの点を除いては。 この女子修道院の裏庭に降ってわいた少年は、まばゆいほどの金髪だったのだ。
少年が起き上がろうと身をもがきながら声を出したとき、違いはさらに多くなった。 その声は、ひどく上ずった頼りないものだった。 しかも、その言葉遣いは……
「申し訳ありません。 図々しい奴だとお思いでしょう。 どうか……お許しください、お嬢様!」
お嬢様!? マルゴはあっけに取られた。 彼女はすっかりどもってしまった。
「わ、私、お、お嬢様なんかじゃないわ。 からかってるの?」
「ちがいます!」
少年は大急ぎで叫んだ。
「からかうなんて、まさか!」
「それじゃ、そんな言葉遣いはやめて」
マルゴは息を切らせながら言った。
「男の人がどうしてここに?」
少年は、小さな声で説明した。
「僕は屋根裏部屋にいるんです……つまり……いるんだ。 それで、窓からこの庭が見えて、あなた……じゃない、君が枝に紐をかけているのがわかったので、それで…」
どうやら彼は、ていねいな言葉を使うほうが楽なようだった。 マルゴは少年が真面目なのがわかりかけてきた。
意外すぎて信じられずに、マルゴは少年をまじまじと観察した。 この子は本当に人間だろうか。 こんなに美しくて、同時にこんなに謙虚でいられるものだろうか。
人間離れした少年を見つめているうちに、言葉が勝手にすべり出た。
「あなた、もしかすると天使?」
少年は、青い眼を大きく見開いて、マルゴをじっと見つめ返した。 それから、不意に笑い出した。 声をいっさい出さない、奇妙な笑い方だった。 まあ、笑うと、この子はとっても無邪気に見えるわ、と、マルゴはびっくりして考えた。 こんな大聖堂の宗教画から抜け出してきたような子が、笑えるというのが、なにか不思議だった。
ようやく笑い止むと、少年は口を開いた。 顔に似合ったビロードのような声だ。 やっと落ち着いたらしかった。
「天使がこんな服を着ると思うかい?」
そう言われて改めてよく見ると、少年の服は古い上にあちこちがすり切れていて、とっくに寿命が尽きていた。 楽しくなって、マルゴは言った。
「そうね、天使なら裸だわね」
とたんに少年は真っ赤になってしまった。 マルゴは彼が気の毒になった。 こんなに純情な人間は見たことがない。 冗談でもからかったりしてはいけないのだ。 いい人、本当にいい子だわ・・・・マルゴはうっとりした。
そのとき、ある考えが浮かんだ。 マルゴは手先が器用で、これまでにエレのドレスやジルベールのシャツを何枚も縫ったことがあった。 外出用のマントを一枚つぶせば・・・マルゴは素早く少年の体を目で測った。
そのとき、遠くから呼び声が聞こえてきた。
「マルグリット! マルグリット・ド・サンマルタン! どこです!」
いそいで少年に、ありがとう、と言おうとして振り向いて、マルゴは少年が消えていることに気づいた。
その夜、マルゴは徹夜で上着を縫いあげた。 同室のエレがロウソクをシーツで隠しておいてくれた。 さんざんマルゴを叱った後ではあったが。
「自殺なんかとんでもない! 私が父様に言って、縁談なんかぶち壊してあげる!」
エレは、そう確信を持って言い切った。
翌日、マルゴは再び裏庭にいた。 どうやって少年に渡そうかと考えていると、まるで気持ちが通じたように、塀の崩れ目から青い眼が覗いた。
マルゴと視線が合うと、少年ははっとしてまばたきし、顔を塀から離して見えなくなった。 あわてたマルゴは崩れ目に駈けつけて、急いで遠ざかっていこうとする少年に呼びかけた。「待って!」
少年は立ち止まったが振り向かない。 マルゴは塀のでこぼこにうまく足をかけて、身軽に外へ飛び降りた。
少年は、ゆっくり振り返った。 細面の美しい顔が、マルゴを見てぽっと赤らんだ。
まっすぐ立つと、少年は思った以上に背が高く、大柄なマルゴよりも更に頭1つ分抜き出ていた。 マルゴは、にこにこしながら少年に、丸めた上着を差し出した。
「これ、昨日のお返しよ。 親切にしてくれたから。 気を悪くしないで受け取ってね」
少年は上着を見つめ、それからマルゴに視線を移した。 低い声がかすれた。
「これを……僕に?」
「そうよ。 ゆうべ縫ったの」
少年が驚き、感激しているようなので、マルゴはすっかりうれしくなった。
「着てみてくれる? 大きさが合わなかったら直すから」
少年はつられてぼろぼろの上着を脱ぎかけたが、はっと気がついて急いで前をかき合わせた。 そして、小さな声で言った。
「下はもっとひどいんだ」
マルゴは辺りを見回した。
「そうね。 ここは道の真ん中だし……どこか落ち着ける場所はないかしら」
少年は困った様子で少し考え込んでいたが、やがてそっとマルゴの手を取ると、地下の聖堂に導いていった。
上着を脱いで、もらった服に手を通しながら、少年はささやくように言った。
「すごいな……袖も上着丈もぴったりだ」
「そう!」
マルゴは少し誇らしい気持ちで、仕立て屋のように上着の裾を軽く引っ張って整えた。
「似合ってるわ。 よかった」
少年はためらい,それからそっとマルゴの肩に手をかけて引き寄せようとした。 とたんにマルゴは勢いよく飛びのいた。 驚いて胸がどきどきしている。 声も自然と荒くなった。
「何するの! いったい何のつもり?」
たちまち少年は狼狽の極に達した。
「あの…… やさしくしてくれたから、お礼のキスをと思って……」
マルゴは、少しの間少年の眼を覗き込んで、彼がまちがいなく本気なのを見極めた。 それで、自分の大げさな反応が恥ずかしくなった。
ジルベールにそっくりでも、この子はジルベールの分身ではないのだ。 おまけに、命の恩人じゃないか。 後悔して、マルゴはそっと少年の手を取った。
「ごめんなさいね。 私は田舎の子で、町風の礼儀作法に慣れていないの」
少年はマルゴをじっと見つめたまま、心をこめて言った。
「僕も田舎者だ。 泥だらけで畑に出ていたんだよ」
この子が……! マルゴは、信じられない気持ちで、絵のように優美な少年を見返した。 はっきりいって、 彼はジルベールより大分きゃしゃで、風にも耐えぬ風情だったのだ。 そのせいか、マルゴは少年にジルのような重苦しい圧迫感を感じなかった。 上品過ぎて、男の子ともあまり思えないほどだった。
そのとき、マルゴは今まで見落としていたことに気づいて、声を立てそうになった。 この子には、上着よりもっと緊急に必要なものがあるのではないか…… そう気づくと同時に、マルゴは握ったままの手に力をこめて、鋭く問いかけた。
「この前食事をしたのは、いつ?」
少年は、思わぬ質問にたじろいだ。
返事がすぐにできないのを見て、マルゴは心を決めた。 小銭は持っている。 この時間帯なら食べ物屋はあいているはずだ。 マルゴは、故郷に残してきたタンタンを思った。 もしあの子が、こんなにやせて影の薄い亡霊のようになっていたとしたらどうだろう。 母性愛が強く心にうずき、まるで少年の保護者になった気分で、マルゴは彼を連れて小走りに街を進み、屋台で、安いが栄養のある蒸し鶏と揚げ物を買った。
余計な気を遣わせないために,マルゴは彼と並んで磨り減った階段に腰を下ろして、一緒に食べた。 食べながら、少しずつ尋ねた。
「私はマルゴ。 あなたは?」
相当飢えているだろうに、音もさせず上品に鶏を口に運んでいた少年は、骨をそっと脇に置いて、つぶやくように言った。
「ジュール」
「屋根裏から私が見えたと言ってたけど、どこの屋根裏?」
ジュール少年の声がますます小さくなった。
「サン・タントワーヌ修道院」
思わずマルゴは高い声になった。
「それじゃ、あなたもあそこの学生なの?」
「あなた、も?」
すみれのように青い眼が、マルゴに向けられた。 いっそうジュールに親近感を覚えて、マルゴは微笑み返した。
「フィリップがいるでしょう? フィリップ・ド・レンフラール」
「ああ」
ジュールの頬に影が射した。
「君も、彼が好きなの?」
「君、も?」
お返しに問い返して、マルゴはにやにやした。
「つまり、フィリップはあちこちに女友達を作ってるのね」
図星らしく、ジュールは下を向いてしまった。 マルゴは首を振った。
「しょうのない人ね。 卒業してからいくらでもやれることを、今からやってるなんて。 勉強したくてもできない人が大勢いるっていうのに」
「君は気にならないの?」
マルゴはきょとんとした。
「なぜ? ああ……」
彼の考えていることがようやく分かって,マルゴは小さく息をついた。
「なんだ。 私がフィリップのこと好きだと思ってたのか。 それはない。 絶対ないから」
遂にマルゴは笑い出してしまった。
「そういえば、フィリップってもてるんですってね。 木から落ちてお尻が割れたとか、初めて乗馬したときにやっぱり落ちて前歯がニ本欠けたとか、そんなとこ見てるから、あまりロマンスの対象にはならない気がする」
ジュールも声を出さずに笑った。
「ほんとの幼なじみなんだね」
「生まれたときからずっと」
ジュールはしばらくためらって、ようやく口を開いた。
「じゃ、彼のために死のうとしたわけじゃないね。 たとえば……子供ができたとか」
ぎくっとして、思わずマルゴの声が硬くなった。
「ちがうわ! そんなことじゃない。 故郷から手紙が来て、私を結婚させるというの。
どうしても嫌だったの。 だからのぼせてあんな真似をしたのよ。 でも、お友だちが故郷に手紙を出してくれたから、もう取りやめになってると思う。 その友だちは、とても力があるから」
「結婚か……」
「そうなのよ……」
二人とも深刻になってしまった。 マルゴはまたかすかな溜め息をついた。
「人は結婚しなくちゃいけないものかしら。 尼さんになったらいいかなと思うけど、お金がかかるし」
「いつか好きなひとができるよ。 君はこんなに……すてきなんだから」
遠慮がちに言われた慰めの言葉に、マルゴはなんとなくうれしくなった。 歯の浮くような誉め言葉でないのが、心を打った。
「いつかね」
「そう、いつか」
こうして、奇妙な友情が始まった。
背景:Kigen
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