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黄金の日輪を越えて

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第23章 不覚



 パリの屋敷はだだっ広く、壮麗だが古めかしかった。 横に長い建物で、飛んでいる鳥に例えると、翼の右端と左端がそれぞれ夫と妻の寝室になっていた。 大声で呼びかけても絶対に聞こえない距離だ。
「愛人を連れこんでもわからないようにできてるんだ、きっと」
 話し相手のマルゴがいないので、エレは独り言でうさ晴らしするしかなかった。 広いベッドは冷たく、寂しかった。 いつも横にいてくれたマルゴの体が懐かしい。
「結婚してるのに、独身時代より一人ぼっちだなんて」
 なかなか寝付かれない夜、エレは幾度も寝返りを打った。 フランソワに頼んで、パリの町を探してもらっているのだが、マルゴの消息はまったく掴めない。 失踪からもう一ヶ月以上経つ。 エレは毎晩床にひざまずいて、幼友達の無事を神に祈った。
 こうなったら、宮中に上がる日を楽しみにするしかなかった。 エレは輿でパリ市内を散策し、ファッションの傾向をよく研究してから、仕立て屋に注文して、何着かドレスを作らせた。 それに似合うアクセサリーも購入した。
 すっかり準備は整ったのだが、国王からの招待状は一向に来なかった。 いっそ自分から押しかけてやろうかと思っていたとき、都合よくフィリップが訪れた。 エレは退屈していたので喜んで迎えたが、フィリップの方はそれどころではなく、どんと椅子に座り込むなり、咳き込んで話し出した。
「エレ、大変だ! 早く宮殿に行かないと、王の機嫌をそこねて修道院行きだよ。
 国王はもう三度も君を招待したんだぜ。 そのたびにフランソワは、妻は風邪を引いています、ひどい頭痛で動けません、と断って、三度目はうまい口実を思いつけなかったらしく、知恵熱を出してます、と言っちまって、怒鳴られたんだそうだ」
 エレは激しく息を吸い込んだ。 怒涛のような悪口雑言が、かわいい口から飛び出しそうだと悟って、フィリップはあわてて遮った。
「わたしに当たり散らさないでくれ。 知らせに来てやったんだから。 いいかい、明日の午前中に迎えに来るから、一緒に宮中に上がろう」
「わかった」
 爆発寸前のふくれっ面で、エレはフィリップに感謝した。
「ありがとう。 王に逆らったら、私だけじゃなく、自分だって罰を受けることになるのに。 どうしてあの馬好き男は……」
「理解不能だよな」
 フィリップもエレに同情した。

 その夜、エレは暴漢に襲われた。 ぐっすり眠り込んでいるところを、突然口を押さえられ、もがいてるうちに酸素不足で意識がなくなった。 目覚めたのは、石造りの広い部屋だった。 粗末なベッドの上に、薄い寝巻き一枚で横たえられている。 起き上がろうとすると、激しい頭痛が襲った。 上半身を起こして、額に手を当てていると、近くでかすかな音がした。 さっと首を回したエレは、そこには信じられない人物を見た。
 立っていたのは、レオン・ルーヴィニュイだった。 茶色の服を着て、室内なのに帽子をかぶったままだ。 その格好で、ずっとエレを眺めていたらしい。 目が合うと、たじろいで視線をそらした。 エレは胸元をかき合わせ、とげとげしい口調で尋ねた。
「あなたが私をさらったの? それとも、いまいましい私の結婚相手?」
 レオンは小声で答えた。
「もちろんフランソワだ。 わたしがこんなことをするわけがないだろう」
「そうでしょうとも」
 エレは、盲目的な怒りに駆られていた。
「あなたたち兄弟は怪物よ! まともな話なんか通じやしないんだから! 二人そろって私を目の仇にして、考えられないような意地悪ばかりして!」
「それは違うぞ!」
「何が違うのよ!」
 エレは大声で怒鳴り返した。
「どんなに私を馬鹿にしたか忘れたの? 生意気な成り上がりって言ったわよね。 自分が金持ちで家柄がいいから、何を言ってもかまわないと思ってるんでしょう!」
 レオンはエレの手を掴んだ。
「そうじゃない! わたしは……」
 とたんに、あっと叫んで彼は手を引っ込めた。 エレが蛇のように身をかがめて噛みついたのだ。 血のしたたる手を見ているうちに、レオンの表情が少しずつ変化した。 エレは息をはずませていた。 最初は小さな勝利感があったが、ゆっくり顔を上げたときのレオンの目を見て、満足は消えた。
 レオンは、まばたきもせずに、こもった声で言った。
「山猫め。 淫乱な尻軽女め。 おまえが男に捨てられて赤ん坊を産んだのを、わたしも兄も知ってるんだぞ。 そんな女を丁重に扱えというのか。 笑わせるな」
 エレは、何がなんだかわからなくなった。 両手を振り上げてレオンに跳びかかったことだけは、ぼんやり記憶に残っていた。 だが、それに続く数十分は、まったく覚えがなかった。

 エレは、しばらくもうろうとしていた。 やがて次第に意識が戻ってきたとき、ゆっくり身を起こそうとして、下半身の異状に気づいた。
 自分の身に何が起こったか、すぐに悟って、エレの眼から悔し涙がぽろぽろとこぼれた。 レオンは既に部屋から立ち去っていた。
「あいつ、殺してやる!」
 本気だった。 唇を血の出るほど噛みしめてベッドから降りたとき、ちょうど戸が開いて、若い尼僧が入ってきた。 エレに丁重に頭を下げて、尼僧はやさしい声で言った。
「御用を言いつかるようにと言われて参りました。 何か……」
「じゃ、役に立ってもらうわよ!」
 そう答えるなり、エレは尼僧に躍りかかり、顎に一発くらわせて床に這わせてしまった。 気絶した尼僧の手から鍵を奪うと、服をはぎ取ろうとしたが、尼僧服は複雑で、なかなか脱がせることができない。 あきらめて、そっと廊下に忍び出た。
 エレが運ばれてきたのは女子修道院だった。 低い窓から庭を見すかすと、頭の白い老人が庭を掃除しているのが目に入った。 あの服を取ってやろう・・・エレは音をさせずに窓から飛び降りた。

 うっそうと茂った森の中に、角笛が響いた。 ここはパリ郊外のお狩り場で、貴族たちは犬を連れ、ダンジャン侯を狩猟長として、ざわざわと馬で移動していた。 地面を嗅ぎまわっていたまだら模様の犬が、ふっと気をつけの姿勢を取って頭をもたげた。
 次の瞬間、灰色の馬にまたがった少年が、高々と柵を飛び越えて、一直線に貴族たち目がけて走ってきた。 馬上の国王は、突如乱入してきた少年をにらみつけて叫んだ。
「止まれ!」
 とたんに少年が手綱を思い切り引きしぼったので、馬は竿立ちになって前足で宙を掻いた。王は更に怒鳴った。
「ここを何と心得る! 無礼者!」
 少年はいきなり帽子を取った。 すると、光り輝く髪があふれ出して背中一杯にたなびいた。 裸馬の上で優雅に一礼すると、彼ならぬ彼女は大声で叫び返した。
「ご招待ありがとうございます! さっそく飛んで参りました!」
 国王の目が飛び出しそうになった。 並み居る貴族たちは肝をつぶして、静まり返った。 穴があくほど馬上の女を見つめていた国王は、突然、腿を叩いて大笑いを始めた。
「そなた……そなただったか。 よく来た! それにしても、珍しい格好をしているな」
「もっと早くうかがいたかったのですが、ずっと尼僧院に閉じ込められておりまして」
 国王の視線が、背後に控えているフランソワに突きささった。 つられて、他の貴族たちも大元帥に視線を集めた。 フランソワは石像のように固まっていた。 表情は変わらないが、頬がかすかに痙攣している。 いい気味だと思いながら、エレは馬を進めて国王の斜め後ろに侍した。
 思いがけない余興に、王はすっかり機嫌をよくして、エレに話しかけた。
「よく逃げてこられたな」
「まあ何とか」
 王は頭をもたげ、聞こえよがしに言った。
「やきもち焼きには角が生えるというが、美人の奥方を持った亭主は大変だ。 どこに隠そうか、さぞ悩むことだろう」
 あちこちで忍び笑いが起こった。
 身1つで逃げてきたエレに、国王は特別に部屋を与え、こっそり一袋の金貨をくれた。 王にとって、エレはかわいい妹と思えるらしかった。 だが、事情を知らない世間は噂した。 エレは国王の新しい恋人だと。



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