目次

黄金の日輪を越えて

第25章 誕生
広大な屋敷に戻ったエレは、落ち着かない日々を送った。 以前はほとんど帰ってこないか、たとえ来ても自室以外には姿を見せなかったフランソワが、週に一度はルーブル宮殿から馬を飛ばして、様子を見に来るようになったのだ。
その態度は、エレを見張っているという以外に形容しようのないものだった。 ときには、窓からちらっとエレを見て、そのまま宮殿にトンボ帰りということさえあったのだ。
「ほんとに何考えてるんだろう」
ボンボン菓子をお土産に、久しぶりに訪れたフィリップに向かって、エレは愚痴った、
「話しかけてくるわけじゃないんだ。 ただジロッと顔見て行っちゃうだけ」
「心配なんだよ、君のことが」
「それはそうだろう。 年中気に病んでるだろうさ」
「そういう意味じゃないよ」
頬をボンボンでふくらませて、フィリップははっきりしない声で続けた。
「フランソワの言うことを、あまりまともに取らないほうがいい。 口下手で、うまく気持ちを表せない奴だから」
「ふん」
鼻で笑って、エレは話題を変えた。 前からこれだけは聞いておかなければと思っていたのだ。
「ねえ、フィリップ」
「なに?」
「あのね、王様の披露宴のとき、ロメーヌ伯爵(ジュール)に何を言ったの?」
とたんにフィリップの眼が落ち着きを失った。 エレから視線を外すと、彼はぎこちない声を返した。
「さあな。 覚えてないよ、そんな前のこと」
いかにも慌てて話題を変えるといった様子で、フィリップは早口で続けた。
「それより、ここでゆっくりするのもいいんだが、動かなすぎるのも健康に悪いよ。 ベシャール夫人のサロンに出てみないか? 面白い話をいっぱい聞かせてくれるよ」
予定日は5月の半ばだったが、3日に陣痛が始まった。 大釜にたっぷり湯が沸かされ、近所で評判の取り上げ女が呼ばれた。 準備はすっかりできていたのに、肝心のエレの体調は思わしくなかった。
陣痛が弱い。 目まいがして力が入らない。 7時間以上がんばった後、エレは疲れきってベッドに埋まっていた。 赤ん坊は生まれないかもしれない。 死んだ子を腹に抱えて、私も死ぬんだ・・・・ お産で命を落とす女は多かった。 3人に1人はいるという説もあった。 フランソワの子供なら命と引き換えにしても産むけれど、とエレは思い、とても口惜しかった。
バンッ、と扉が音を立てて開いた。 侍女たちが驚き騒ぐ声が、弱ったエレの耳に飛び込んできた。
「いけません! ここは殿方の来る場所では……あっ!」
侍女たちはなぎ倒されたらしい。 重い足音がずんずんベッドに近づいてきた。 薄く目を開けると、視野一杯にフランソワの顔が広がっていた。 視線が合ったとたん、その口がゆがみ、低い声が脅しつけるように言った。
「口ほどにもないやつだな」
「何よ」
「大きなことを言っておいて、一人で子供が産めないのか」
こんなときにまで、こんなこと言いにきやがって!・・・・エレは激怒して両手を突っぱり、必死で身を起こした。
「この野蛮人! 熊! ろくでなし!」
「よし、その元気だ」
そう言うなり、フランソワはエレの上半身を後ろから支えて、座った姿勢にした。
「この方が力が入りやすいんだ。 さあ、いきむんだ!」
反射的にエレは力んだ。 すると、何かが下にさがってきた感じがあった。
「波を感じるんだ。 眼を閉じて、ここだと思ったら、すかさずいきめ」
そうだ、フランソワはかわいがっている犬や馬の出産に最初から最後まで付き添うんだった・・・・エレは余計なことを思い出した。 間もなく、背骨が折れそうな痛みが襲ってきた。 エレはフラソワにしがみつき、腕に爪を立てた。 フランソワは唇を噛んで耐え、さらに励ました。
「これで山を越えるぞ。 さあ!」
エレの口から、激しく息が吐き出された。同時に、火がついたような高い産声が、部屋中に響いた。
虚脱状態になって、エレは夫の腕の中で眼をつぶった。 もう力はかけらも残っていない。 侍女の嬉しそうな声が、意識を失う寸前に耳に飛び込んできた。
「おめでとうございます! 玉のような赤ちゃんですよ!」
6時間昏睡状態だったと、後で知った。 気がついたとき、フランソワは立ち去っていて、エレはきれいにされたベッドに横たわっていた。
何もかもが夢だったと思えた。 出産も、フランソワの訪れも。 だが、再び眠りに引き込まれそうになったエレを、侍女のクリスティーヌの声が引き戻した。
「お起きになりましたか。 ごらんください。 すこやかな男のお子様です」
男の子…最悪じゃないか・・・・エレは溜め息をつきたくなった。 どうせフランソワは認知しないだろうが、子供が大きくなって、爵位を継ぐ権利があると訴え出るかもしれない。
子供の顔を見ようともしないで、エレは寝返りを打った。
「この子を見て、夫は何て言っていた?」
「お言葉のままお伝えします。 『わたしに似て体格のいい子だ。 いい跡継ぎになるだろう』」
エレは文字通りベッドから飛び起きた。
「何ですって!?」
「一言一句そのままです」
「信じられない……」
再びベッドに崩れて、エレは固く眼をつぶった。
翌日、まだ起きられないエレの枕もとで、誰かが遠慮がちに話しかけてきたので、彼女は浅い眠りから覚めた。
「お疲れのところ申し訳ありません。 でもアンリ様が死にそうなので、どうしたらいいかわからなくて」
「アンリって誰?」
エレはぼんやり尋ねた。
「アンリ坊ちゃまですわ。 お生まれになったばかりの。 私の乳が合わないらしくて、少しも飲んでくださらないんです」」
たちまちエレの意識がはっきりした。 そして、乳母が抱いてきた大きな赤ん坊を膝に置き、胸をはだけた。 乳母は仰天した。 上流社会では、奥方が自ら乳を与えるのはあり得ないことだったのだ。
「奥様!」
「なに」
エレは、神経質そうな乳母をじろっとにらんだ。
「私の子よ。 私のおっぱいが一番合うにきまってるじゃない」
そのとおりだった。 赤ん坊はエレにすがりつき、力いっぱい乳を吸いはじめた。
背景:Kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved