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黄金の日輪を越えて

第26章 めぐり逢い
春が来た。 マルゴがブロワから逃げ出してから、3回目の春だった。
その日、マルゴはセーヌ川の岸辺にいた。 シテ島に渡る船着場の横に立って、白い鏡のような水面を見ていた。 横では友だちのアルエットが、すみれの花束を籠に入れて売っていた。 よく晴れた美しい日で、人々の心は弾み、売れ行きは上々だった。
背後からにぎやかな声が近づいてきたので、マルゴは振り返った。 それは、着飾った貴族の一団だった。 渡し舟に乗るつもりらしい。 マルゴは頭巾を目深にずらして、できるだけ顔が見えないようにした。 もしかするとフィリップか、その友人が一行の中にいるかもしれない。 見つかると困ったことになるからだった。
アルエットは逆に、ブラウスの襟元を引っ張って胸がのぞけるようにして、青年貴族たちにほほえみかけた。
「すみれはいかがですか。 恋人に、奥方に、すみれのプレセントはいかが」
青年貴族たちは話に夢中で、たいていはアルエットに気づかなかった。 まして、少し離れたところにひっそりとたたずむマルゴに注意を向ける者はない、はずだった。
10人ほどの一行から、ひとりだけが歩き出して、アルエットを通り越し、マルゴの前に立った。 頭巾のレースの下からうかがうと、それは派手な服を着た金髪の青年だった。 彼はなかなか美しかった。 背は高くないが、華美な服と気取ったポーズで、いかにも伊達男という雰囲気だった。
「前もここにいたな」
相手が話しかけてきたので、マルゴはうつむいた。 返事をしなければ、立ち去ってくれるだろうか。
「スペインの踊り子か、エジプトの姫君か。 なぜ顔を隠す。 この間は頭巾など被らず、風に頬をなぶらせていて、あまりの美しさに目が離せなかったぞ」
途方に暮れて、マルゴは小走りに立ち去ろうとした。 とたんに腕を掴まれた。
「一緒に来い。 大事にしてやる。 かわいがってやるから」
そして強引にキスしようとした。 たちまちマルゴはのぼせあがった。 反射的に男の顎に拳で一撃を入れ、思い切り突き飛ばした。 その勢いで頭巾が脱げて、水面に落ちてしまった。 そこで初めて後ろで起こったことを知った貴族たちは、わっと笑い出した。
殴られた青年は、軽い脳震盪(のうしんとう)を起こしたらしく、ふらふらしながらマルゴを指差した。
「こいつ!」
あわててマルゴは走り出した。 脚力なら自信がある。 足の短いあの男が追ってきても、逃げ切れる自信はあった。 背後の怒鳴り声が小さくなっていった。
「覚えていろ! 今度見つけたらベッドに縛りつけて、ボロボロにしてやるからな!」
入り組んだ裏道に入り込めば、もう大丈夫だった。 パリにはいくらでも身を隠す場所がある。 力任せに殴ったので痛む右手を撫でながら、うまく逃げ切れてよかった、とマルゴは思った。
置いてきたアルエットは大丈夫だろうか。 知りあいだと気づかれていないから、多分平気だ、とマルゴは自分に言い聞かせた。 それにしても、当分あの岸辺には行けない。 今日は花を届けて、アルエットとお昼ご飯を一緒に食べようとして待っていたのだが、もうこれからは無理だった。 郊外に行って花を摘むアルバイトができなくなると、家賃を払うのが苦しい・・・・洗濯の仕事を増やそうか、とマルゴは思案した。
その夜、第三の仕事である酒場の皿洗いを終えて、マルゴは速足で帰路についていた。 パリの夜道は危ない。 袖の短剣を握りしめて、いつでも使える状態にしていた。
それなのに、マルゴは不覚を取った。 角を曲がったとたんに、よれよれの軍服を着た男に道をふさがれた。
「かわいいな、キスしてくれよ」
と男は言った。 マルゴは背筋が凍りついた。 すぐに短剣を出そうとしたが、男のほうが素早くその手を押さえてしまった。
すぐに男は、すらりとしたマルゴが予想外に力持ちだと気づかされた。 恐怖で半狂乱になったマルゴは、なりふり構わず闘った。 男は、手を骨に届くほど噛み裂かれて悲鳴を上げた。男はマルゴを殴り、石畳に頭を打ちつけた。 半分意識を失いながらも、マルゴは膝を持ち上げて男の急所を蹴った。
激怒した男は、マルゴの首を締めあげた。 次第に目の前がかすんでくる。 もうだめだ、 とマルゴは薄れていく意識の中で観念した。
そのときだった。 不意に男の体から力が抜けた。 誰かがマルゴの上から男の死体を持ち上げ、引きずっていった。 マルゴは、そこで気を失った。
意識がゆっくり戻ってくる。 体が妙に不安定だ。 どうやら舟の上らしい。 それに、誰かの手が、そっと揺すぶっていた。
低い声が囁いた。
「起きるんだ。 さあ、元気を出して。 もうじき夜が明けるよ」
揺さぶられなくても、この声だけでマルゴはいちどきに目が覚めた。 そして、大急ぎで瞼を上げた。
後で考えてみると、その瞬間悲鳴をあげなかったのが不思議だった。 明け方の光にぼんやり照らし出された顔は、光線の加減もあって、とうてい人間のものとは思えなかったのだから。
目の前の顔は、死神だった。 どう見ても死神そのもの、つまり骸骨だったのだ。 しかもその上に、安物のカツラを目の上まで引き下げてかぶっているので、いっそう異様な風体だった。
これで鎌を持てばぴったり、というとんでもない顔は、よくよく見ると精巧にできた仮面だった。 布を糊かなにかで固めてあるのだろう。 顔に沿っていて隙間がない。 口元だけが少し大きく開いて、動かせるようにできていた。
マルゴは、どう反応していいかわからず、まじまじと仮面を見つめながら、ゆっくり身を起こした。 それから、小声で尋ねた。
「あなたが助けてくださったの?」
男はうなずいた。 マルゴは、黒い手袋をはめた彼の手を取って握った。
「ありがとう、ご親切に」
男はじっとマルゴを見返した。 そしてひどくかすれた声で、不思議そうにつぶやいた。
「君はわたしを怖がらないのか? 夜の悪魔のように見えただろうに」
マルゴは微笑した。
「悪魔が救ってくれるかしら。 それに、私は前から思っていたわ。 悪魔はきっと、美男にちがいないって」
とたんに男が笑い出した。 声を出さない奇妙な笑い方だ。 その独特な笑いを聞いているうちに、マルゴは妙なしびれを感じ、いても立ってもいられなくなった。 この笑い方は、まさか…… 確信した瞬間、マルゴの心は大混乱に陥った。 どうしよう…… この人は……この人は、ジュール……?
どうしたの、ジュール・・・・マルゴは首をかしげて友達の変装を見つめた。 なぜこんな奇妙な、ヴェネチアン・カーニバルの仮装のような姿をしているのだろう。
舟をきしませて、男は立ち上がった。 そして、手を差し延ばして、マルゴを立ち上がらせてくれた。 そのとき、仄かな香りがマルゴの鼻を包んだ。 山百合の香り・・・・ふるさとを思い出して、マルゴは涙ぐみそうになった。
舟は係留されていて、川面をただよっているだけだった。 男は先に舟から降り、マルゴを抱えるようにして岸に立たせた。 二人は手を握り合って、まだ暗い明け方の道を歩き出した。
途中でマルゴは頭が痛くなるほど考えつづけた。 誰かわかっていると、この人に言うべきだろうか。 でも、名乗りたくないらしいし。 意を決して、マルゴは遠まわしに仄めかすことにした。
「あなたは、私の《天使》?」
そう言えば察すると思ったのに、彼は相当驚いた様子だった。
「天使だって? 君の意見じゃ、天使は醜いものなのか?」
こんな質問、答えようがない。 困ってマルゴは下を向いてしまった。
数時間前、暴漢に襲われた角まで来て、マルゴは足を速めた。 道に黒いしみが広がっている。 マルゴの視線をたどって、男は低く言った。
「背中を刺して河に捨てた」
マルゴはうなずき、彼の手を引っ張って角を曲がった。 相手が襲ってきたとはいえ、自分のためにまた一人命を落とした。 今夜は神に祈らなければ・・・
下宿の前まで来て、マルゴは立ち止まり、男を見上げて囁いた。
「また会いたい。 会いに来てくれる?」
少しの間沈黙が続いた。 男はうつむいて考えていたが、ぽつりと、
「そうできればうれしいんだが」
と呟き、マルゴの手をそっと握り返して、音もなく暗がりに溶けていった。
翌日、マルゴはアルエットに事情を話して、しばらく花摘みに行けないと断った。 アルエットは残念がった。
「あんた、田舎の子でしょう? だから、どこに花があるか見つけるのがとてもうまい。 他の人じゃ代わりになれないんだけど」
「私もずっとやっていたかった」
二人は抱き合い、しばしの別れを惜しんだ。
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