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黄金の日輪を越えて

第27章 賭け
朝は、もし晴れなら7時から10時ぐらいまで洗濯を引き受け、午後はレストランの、夜は酒場の皿洗いをする。 それがマルゴの一日だった。
雨が降って洗濯できない日は、繕い物を請け負った。 レストランで残りご飯を食べさせてくれるので、食費はほんの少しですんだ。 服は何度もつくろい、いよいよ着られなくなったら古着屋で買う。 裸足で暮らした日々が長かったから、靴に穴があいても平気だった。
できるだけ目立たないように、マルゴは息をひそめて暮らしていた。 何しろパリには国王がいる。 こんな裏町で出会うことはまずないにしろ、用心にこしたことはなかった。
その上、マルゴは新たな敵を作ってしまった。 川岸でキスしようとした、あの貴族だ。 もう上流社会はこりごりだ、とマルゴは思っていた。 下町はごみごみしているし、家は狭い。 だが、助け合いの心と人情があった。 マルゴにとっては、貴族社会よりずっと住みよい世界だった。
酒場からの帰り道は、襲われた夜以来、店の主人が戸口まで送ってくれた。 真夏に近いその夜も、主人のベルグランと連れ立って帰ってきて、マルゴは粗末な扉の前で手を振って別れた。
ベルグランの姿が横丁に消えるのとほとんど同時に、ばたばたという足音が聞こえてきた。 誰かが全速力で走ってくる。 あわてて家に飛び込もうとしたマルゴは、闇から駈け出してきた姿を見て息を呑んだ。
必死に走ってくる男を素早く掴んで、マルゴはぱっと戸口から引きこみ、ドアを閉めた。
「追われてるんだ」
と、彼はあえぎながら言った。 ためらわず、マルゴは彼の手を引き、屋根裏にある自分の部屋に押しこんだ。
その直後、横柄なノックの音が聞こえた。 すべるように階段を駆け下りて、マルゴはドアの後ろに立ち、訪問者に尋ねた。
「誰ですか?」
「あけろ。 警察だ」
警察…… いったいジュールは何をしたのだろう。 いぶかりながらマルゴが扉を開くと、犬を連れた警官が一人、脚を広げて立っていた。
「おまえ、ヤミ詩人を見なかったか?」
「ヤミ詩人って、ビラを作って撒いている人ですか?」
「そうだ。 とんでもない反逆者野郎だ。 うす汚い骸骨の面をつけていて、背はこのぐらい。 上から下まで真っ黒な格好だ」
顎をなでると、警官は余計なことを付け加えた。
「どうせ不細工な顔だから、ひがんで世の中をかき回そうっていうんだ、きっと」
ちょっとむっとして、マルゴは冷たい声になった。
「見てません、そんな人。 ヤミ詩人なんて知りません」
「そうか。 もし見たら、すぐに通報するんだぞ。 重罪人なんだから、かくまったりすると自分の身も危ないぞ」
「捕まったら、どんな罪になるんですか?」
「もちろん首吊りだ」
マルゴの顔から血の気が引いた。
大きな犬と共に、警官は去っていった。 その後ろ姿が見えなくなってから、マルゴは屋根裏に上がっていった。
青年は、月明かりしかない部屋の中に立って、天窓から外を見ていた。 マルゴがドアをあけると、彼は振り向いて手短に、
「ありがとう」
と言って、出て行こうとした。 マルゴは急いで引き止めた。
「きっとまだ巡回してるわ。 しばらくここにいたほうがいい」
「そんな迷惑はかけられない」
彼は、かすれた声できっぱりと言った。 だが、マルゴはさっさとロウソクをつけて、小さなテーブルについてしまった。
「ねえ、座って。 カードでもしましょう」
少しためらっていたものの、結局男は椅子を引いて、腰を下ろした。 たどたどしくカードを切りながら、マルゴは尋ねた。
「簡単なゲームしか知らないの。 面白い遊び方知ってる?」
「ああ……今流行の、オカというやつはどう?」
「教えて」
ルールは簡単で、すぐ覚えられた。
「何か賭けよう」
「うーん、それじゃね、ナントの町」
青年は笑った。
「大きく出たね。 それでは、わたしはマルセイユ」
最初はマルゴが勝った。 二人はパリからリヨンまで片っ端の町を賭けて勝負し、勝ったり負けたりして、大半の土地を分けっこしてしまった。
「さあ、二人とも大地主だ」
「もう思いつかない!」
くすくす笑い出したマルゴは、ふと考えた。 もうそろそろ昔馴染みに戻っていい頃合だ。 軽く身を乗り出して、マルゴはいたずらっぽく提案した。
「ヤミ詩人さん。 あなたの本名を賭けないこと?」
青年の顔から、さっと笑いが引っこんだ。 彼は仮面のくぼんだ穴の下から刃のような眼でマルゴを見返すと、
「それなら君はキスを賭ける気があるか?」
と訊いた。
あたたかかった室内の空気が、不意に冷えた。 マルゴは凍りついた表情で相手を見返した。 よりにもよって、キスを望むとは! これが他の男なら、間髪を入れず拒否するところだった。 だが、今のジュールが相手だと微妙だった。 本気でキスするには仮面を取らなくてはならない。 それでは賭けの意味がないのだ。 たぶん冗談・・・そう思い込むことにして、マルゴはうなずいた。 それに、負けるとは限らない。 ひょっとしたら勝てるかもしれないし。
「いいわ」
そうマルゴが答えたとたん、青年は眼をつぶった。
カードが配られた。 表に返すとき、マルゴの心臓は口から飛び出すほど高鳴った。 神さま、勝てますように…… でも、もし万一…!
その万一が的中してしまった。 カードはマルゴの負けを示していた。 青年がぱっと立ち上がるのを見て、マルゴは気分が悪くなった。 喉のあたりがむずむずする。 自分でも顔が青くなるのが分かった。
彼は、そっとマルゴの顎に手を添え、仮面のままごく軽くその先にキスした。 そして、隠れた口でできるだけ微笑んでみせた。
「いい子だ。 おびえないでいいんだよ」
「おびえてなんかいないわ」
ほっとしたのと、申し訳ない気持ちとが一体になって、マルゴは衝動的に腰を浮かせ、自分からジュールの口に唇をつけた。 ほんの一瞬だけ。 それでも自分からやった初めてのキスだった。
彼は、マルゴの髪を撫で、ごく低い声で言った。
「ありがとう。 いい思い出になるよ」
ジュールは幻のように出て行った。 そして、二度と《ヤミ詩人》としてマルコの前に現れることはなかった。
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