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黄金の日輪を越えて

第33章 決闘
階段の下の回廊に飛び出して、マルゴは柱に寄りかかった。 殉教者のように半ば目を閉じて、膝まずいていたジュール。 以前の彼がどんなに慎ましく控えめだったか知っているだけに、マルゴは心をえぐられる思いだった。
あの小さい男の子を救いたい一心で・・・並外れて美しく生まれたことが、ジュールの不運だった、と、マルゴはつくづく思った。
気分を直すために、しばらく庭を歩き回った後、マルゴはいやいや廊下に戻ってきた。 中庭の噴水の傍を通りかかったとき、声が聞こえた。 片方は情熱的な女の声、もう一方は物憂げな冷たい響きの男の声。 どちらの声にも聞き覚えがあった。
「私は、話し相手になってくれと願っているだけです。 それなのに一度も部屋に来てくれない」
「驚きましたね」
と、男が他人行儀に言った。
「夫と妻が一人の男を取り合うなどという事態は、あまり例のないことでしょうな」
「私は知的な交際をしたいだけです!」
「ところがご承知の通り、わたしはいたって知性を必要としない生活を営んでおりますので」
女は怒って地団太を踏んだ。
「この噴水の仕掛けを考案したのが誰か、私が知らないと思っているの? あなたは知性の人です。 知性のかたまりと言ってもいい。 それなのに、いくら国王に頼まれたからとはいえ、あのように恥知らずな集まりの座持ちまでして!」
「お気に召さなくて残念です」
「あなたが私の夫を意のままに操っていることはわかっています」
「操ってはいません。 大体において思ったとおりに振舞っているだけです。 王族はおべっか使いに慣れていますから、わたしのような男が新鮮なのでしょう」
「確かにあなたは変わっている。 殿の寵愛ぶりからすればいくらでも出世が望めるのに、願おうとしない。 自分からは金銭も求めない。 権力さえもふるおうとしない。 だからあなたは危険人物なのです」
「まさしく」
ジュールは面白がっているようだった。 アンリエット妃は、じれったそうに続けた。
「かといって、あなたには忠誠心もない。 国王をばかにしているわね」
少し間があいた。
「ばかにしてはいません。 現国王は目先の利くお方だ。 勤勉で、努力家でもいらっしゃる」
「それにしては、あのビラの内容はひどかったようね。 気の毒なラ・ヴァリエール嬢は、胸を大きくする秘薬を求めて駆けずり回っているそうよ」
「遺憾ながら彼女はわたしと同じ立場なので、見る眼が厳しくなります。 日陰者なら日陰者らしく、与えられる物で満足していればいいのです。 王の威光をかさに着て、兄を出世街道に乗せたりするのは、妾として邪道です。 そうお思いになりませんか?」
「ラ・ヴァリエールの採った道は、宮廷では最も正統な生き方です。 ここでは出世のためなら人は何でもします。 そして満たされぬ心をまぎらせるために、夫が妻を裏切り、妻が夫以外の男をベッドに招きいれるのが流行に沿ったやり方なのです。 正義感は出し損ないの証文のようなもの。 時代遅れだわ」
「正義の通った時代が、これまでにあったでしょうか? 人は昔を美化しすぎます」
「そしてあなたは自分を卑下しすぎます、ロメーヌ伯爵。 あんな豚小屋にいるには、あなたはもったいなすぎます」
思ったとおりだった、と、柱の陰でマルゴは考えた。 ジュールは変わっていない。 不思議なほど人生の垢にまみれずに、控えめで謙虚な性格を保っているのだ。 それにしてもアンリエット妃がジュールに心を寄せていたとは驚きだった。 二人に気づかれないように、マルゴは足音を忍ばせて階段の下まで戻った。
そこへ、誰かが降りてきた。 顔を上げたマルゴは、思わず息を引いて一歩後ろへ下がった。 それは2年前、彼女にキスしようとして殴られた貴族だった。 相手もすぐマルゴを思い出した。
「へえ、ここで会うとは思いがけないことだ。 えらく着飾って、一段と女っぷりが増したな。 ちょっと来い。 お返しをしてやる」
そう言うなり、百人隊長ゴットワルトは、いきなりマルゴの頬を叩いた。 マルゴは高い悲鳴を上げ、男のレースの襟を掴んで、思い切り突き飛ばした。 ゴットワルトは、かっとしてマルゴに跳びかかった。 二人は殴り合いを始めた。 椅子が倒れ、髪がほどけた。 マルゴがカツラをはじき飛ばすと、禿げ頭が現れたので、男は完全に逆上してしまった。 ゴットワルトの眼に殺意を見たマルゴは、後ずさりした。 男はゆっくり剣を抜いた。
突然、すべるような足取りで、しなやかな姿がマルゴの視野を遮った。 それが誰か気づいたマルゴは、全身に震えが走った。 ゴットワルトは、ジュールの手に下がった剣を見て、せせら笑いを浮かべて言った。
「おや、《美少女》のお出ましだな」
戸口に現れた王弟が、鋭く叫んだ。
「やめるんだ、ジュール! 殺されるぞ!」
マルゴは蒼白になった。 しかし、ジュールは落ち着いていた。 青い眼だけが油断なく相手の動きを追っていた。
ゴットワルトは、舌なめずりしながら激しく切り込んできた。 ジュールは危うくかわしたが、階段に追いつめられた。 一歩一歩、段を上がりながら応戦するジュールの姿に、マルゴは心臓が凍りつく思いだった。 ゴットワルトはすっかり余裕を持ったらしく、大口を開けて笑いながら、とどめの一撃とばかり、大きく踏み込んで剣を突き出した。
マルゴは眼をつぶった。 次の瞬間に起きたことは、誰の目にも奇跡としか映らない出来事だった。 王弟が喉を締められたようにあえいだので、マルゴがおそるおそる目を開くと、鳥か何かのように相手を串刺しにしたジュールが、ゆっくり剣を抜き取っているところだった。
男は胸から血を吹きながら階段を転がり落ちていった。 ジュールは上気もせず、青白い顔のままだった。 マルゴのそばで見ていた貴族が、溜まった息を吐き出した。 そして、
「信じられん。 これまで一度も決闘したことのない男が、どうしてゴットワルトを倒せるんだ! 血を見ただけで気を失うかと思っていたのに」
と叫んだ。
ジュールは、静かに階段を下りながら、
「こいつもそう思って油断していたのさ」
と答えた。 そして、マルゴをちらりとも見ずに、歩み去っていった。
マルゴを見ていたのは、別の人物だった。 刺すような視線を感じて振り返ると、アンリエット妃が立っていた。 妃の目にきらめいている光を、マルゴは見逃さなかった。 自分の部屋ではジュールをさんざん罵っていた妃だが、あれは裏返しの愛の悲しみだったのだ。 しびれたようになっているマルゴの手を、フィリップが捕らえた。
「早く逃げ出そう。 君は王弟夫妻のどちらにも睨まれてしまったぞ」
馬車の中で、フィリップは奇妙な表情をしていた。 彼は一足違いでマルゴを助けそこなったのだが、ここにきて一度に酔いも醒め果てた様子で、
「ジュールの奴、どうしてゴットワルトを殺したんだ」
と呟いた。
マルゴは、びっくりして顔を振り向けた。 フィリップは説明した。
「素人が見ればわからなかったのは無理ないが、実はあの決闘は、最初から最後までジュールが主導権を握っていたんだ。 相手がどう出るか、あいつは冷静に見極め、かすり傷ひとつ負わずに受け流していた。 あんな腕前をどこで身につけたか知らないが、ゴットワルトとは大人と子供ほども技が違っていた。 軽く胸でも切れば負かすのに充分だったのに、あいつは容赦なく殺してしまった。 いつものジュールらしくない」
首をかしげるフィリップに、マルゴは、
「王弟に無理強いされたから、むしゃくしゃしていたんでしょう」
と答えた。
フィリップは、ますます妙な顔でマルゴを眺めた。
「まさか! 前は自分から進んでやってたんだぞ。 ここしばらくは熱心じゃなかったが」
マルゴはとたんに癇癪〔かんしゃく〕を起こし、
「そんな話は聞きたくない!」
と叫んで耳をふさいでしまった。
数日後、フィリップが宮廷から帰って報告した。 ジュールは、法で禁じられている決闘をやったかどでローマに追放されたという。 マルゴは驚いたが、フィリップは平気で、「ジュールの奴、王弟から離れられるんで、いそいそと出発していったよ」
と話した。
マルゴは夜中じゅう考えた。 あのときは、どんなに感謝したくても事情が許さなかった。 だが、このまま黙って都落ちさせてしまうのは、あまりにも恩知らずだ。 翌日、マルゴは店で手紙を書き、忠実なクリスティーヌに頼んでジュールの留守宅に届けてもらった。
『優しいジュールへ 不幸な巡り合わせから、騒ぎに巻き込んでしまって、心から申し訳なく思っています。 もしこんな私でもお役に立てることがあったら何でもします。 1日も早く戻れますように。 忠実な友 マルグリット 』
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