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黄金の日輪を越えて

第35章 初めての夜
戻ってきたエレは、珍しくしょげていた。 そしてマルゴの寝室に入り、素直に詫びた。
「マルゴ、ごめん。 ロメーヌ伯を説得しようとしたんだけど、やり方をまちがえた」
マルゴはもう覚悟を決めていた。
「滅多に怒らない人は、本気で怒ると後を引くわ。 ありがとう、エレ。 私のためにやってくれたんだもの。 それに、ジュールのためにも」
「そこなんだよね」
ますますエレは暗くなった。
「いっそ、また逃げるか」
マルゴは首を振って否定した。
「これまで彼には迷惑のかけ通しなの。 退学から始まって、いろいろあって、今度は追放処分。 これ以上恥をかかせるなんて、絶対にできない」
「じゃ、どうする?」
マルゴは静かに言った。
「フィリップに使いを出してもらったの。 タンタンを呼ぶわ。 あの子を連れていって、すべて話す」
「そうか……」
エレは目を押さえた。
5日後、ロメーヌ伯爵家の執事クレモンが短い手紙を持ってきた。 本日夕刻に式を挙げるからすぐに来るようにと、事務的にしたためてあった。
「何かあったら、すぐに逃げ帰っておいで」 というありがたい言葉に送られて、マルゴはタンタンと馬車に乗った。 玄関には、花婿みずからが出迎えていた。 真っ黒ずくめの服装で、目がすわっている。 夜目にも顔の青さが際立ち、マルゴは恐怖で口がきけなくなった。
彼が無言で手を差し出したので、マルゴはふるえながらその上に手を重ねた。 そのまま二人は、庭の奥にある礼拝堂に入っていった。 親戚、招待客、共になく、礼拝堂にいたのは、神父と、結婚の証人を兼ねた役所の書記だけだった。 マルゴはかすれ声をなんとか絞り出して宣誓したが、ジュールはほとんど声を出さず、「誓います」、という言葉が聞き取れたぐらいだった。 相当酔っているらしい。 動くたびに強烈な酒の臭いがした。
話して通じる状況ではなかった。 もうなるようになれという気持ちで、マルゴはジュールの後をついて母屋に行った。
執事がマルゴを寝室に案内した。 広く、清潔だが、ベッド以外なにもない。 クリスティーヌに手伝ってもらって着替えながら、マルゴはこれから起こることを考えまいとして、口の中で祈りを唱えていた。
下の広間には、式の当初からタンタンと乳母のマリーが取り残されていた。 館の中は男ばかりで、誰もかまってくれない。 困ったマリーは、指示を仰ぐために二階に上がっていった。
タンタンは膝をそろえて、庭に下りる小階段に座っていた。 すると、どこか定まらない足取りで、大柄な男が歩いてくるのが見えた。
階段の少し前で男は立ち止まり、タンタンの小さな姿を見下ろした。
「おまえは?」
タンタンは、きちんと立って答えた。
「オーギュスト・ド・サンマルタンです」
「立派な名前だ」
男は、息をつきながら言った。 長すぎる名前なのかな、と思ったタンタンは、念のために付け加えた。
「みんなはタンタンって呼びます」
「ああ……苗字のほうから取ったんだな」
男はつぶやくと、タンタンの隣にどっかりと腰を下ろした。
「なんでここにいる?」
立ったまま、タンタンは答えた。
「母様に呼ばれて」
母様? と男はつぶやき、少年の顎に手を当てて、明るいほうを向かせた。
「……そっくりだな」
「よく言われます」
手をおろすと、男は再び尋ねた。
「父親は誰だ?」
タンタンは瞬きした。
「わかりません」
「わからない?」
「はい。 母様にもわからないんです」
「どういうことだ」
9歳の少年は体を固くしたが、それでも悪びれずに言った。
「母様は道で殴り倒されたんです。 そいつらを見つけたら絶対殺すってエレが言ってます」
男はしばらく黙然としていた。 それから、タンタンを抱き取って、膝に乗せた。
「母様は、かわいがってくれるか?」
少年は眼を輝かせた。
「とても。 手紙をたくさんくれて、たまに帰ってきたときにはずっと抱きしめてくれます」
そのとき、階段の途中から時ならぬ悲鳴が上がった。 タンタンと男は同時に振り向いた。
二階の扉が開き、着替え終わったばかりのマルゴが飛び出してきた。 悲鳴を上げたのは、乳母のマリーだった。 マリーは、タンタンをジュールの膝から奪い返し、夢中で抱きしめた。
それを見たマルゴが、鋭い声で叱りつけた。
「なんて失礼なことを!」
マリーは負けずに言い返した。
「あの方はタンタンに何かしようとなさったんですよ!」
あきれ果てて、マルゴは階段を駆け下りた。
「冗談も休み休み言いなさい! タンタンを見て。 笑ってるじゃないの」
「やさしくして、その後がこわい……」
「それ以上ばかなこと言うと、すぐにジロンへ帰ってもらうわよ」
マルゴの声は氷以上に冷たかった。 マリーは取り乱して、わっと泣き伏した。
どうしてこうなってしまうの! ・・・マルゴは手のほどこしようがない気分だった。 どうせフィリップがマリーに余計なことを吹き込んだにちがいない。
ジュールは階段に座ったままだった。 タンタンは、号泣している乳母を困ったように眺めていたが、間もなく顔を上げてマルゴに言った。
「マリーは泣き虫なんだ。 母様が困るなら、さっきの家に連れていって、泣くの止めたら、また帰ってくるよ」
マルゴは、膝を折って、息子の頭を撫でた。
「そうね。 そうしてくれる? 明日までゆっくり、フィリップの家で休ませてやって」
明日という日、自分はどうなっているだろう。 マルゴは考えたくなかった。
息子たちを馬車に乗り込ませた後、マルゴは疲れた足取りで屋敷に入った。 食堂の前に執事が控えていて、低い声で、食事の準備ができた事を告げた。
食事中、マルゴは自分が何を食べているか、まるでわからなかった。 ジュールはろくに食べずに酒ばかりあおっていたが、酔いつぶれる代わりにますます青ざめ、意識がはっきりしてくるようだった。
食べ終わると、ジュールはマルゴの手首を取り、二階へ向かった。 そして、寝室に入ると、ドアを閉めて向き直った。
マルゴは大急ぎで、服を脱ぎ始めた。 仕込んだナイフはさっき外してある。 自分を絶体絶命に追いつめることで、マルゴは決着をつけようとしていた。
ジュールは足を踏みしめて、マルゴを注視していた。 長い下着一枚になると、マルゴはためらい、ベッドにもぐりこんだ。 背中に汗が流れ、こめかみに血が音を立てて流れた。 気絶できればいいのだが、こういう場合、マルゴは常に、普段以上に活発に、そして攻撃的になってしまうのだった。
ゆっくり近づいてくる足音がした。 マルゴは息を殺した。 そして、男の手が肩にかかるのを感じたとたん、めちゃくちゃに手を振り回した。
どのくらい抵抗が続いたか、マルゴ自身にもわからなかった。 すっかり息が切れてめまいが襲ってきたとき、マルゴはジュールの胸に我知らず寄りかかっていた。 そして、かっかと燃える頭の片隅で考えていた。
(この人は、山猫のような妻を殴りもしなければ怒鳴りつけようともしない。 黙って叩かれているだけだ。 いったいどういう事なんだろう)
そのとき、不意にマルゴは気づいた。 怖くない。 力尽きた体をゆっくり引き寄せられても、もう何の恐怖も感じなかった。
背景:Kigen
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