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黄金の日輪を越えて

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第36章  目覚め



 ジュールはそっとマルゴを離した。 軽い、ほんの数分の行為。 現実だったとは信じられないほどたやすく、すぐ終わってしまった。
 脱力して、マルゴは放心状態で横たわっていた。 ジュールも無言だ。 短い息だけが聞こえる。 突然マルゴは考えるのが嫌になって目を閉じた。 心も体も疲れきっていた。 この奇跡については、明日考えよう。 明日ゆっくりと順を追って…… 本当に疲れた、と思ったとき、マルゴはもう夢の国にいた。

 遠慮がちなノックの音がした。 実は門の外で、ちょっとした戦争が発生していたのだ。 タンタンとマリーが帰ってきたことで逆上したフィリップが、家之子郎党を引き連れて押しかけてきていた。
「門を開けないと火をつける、などと言っています」
 もうろうとした眼でベッドから起き上がったジュールは、仕方なくつぶやいた。
「フィリップ一人なら入っていいと言え」

 フィリップは二階に駆け上がり、マルゴを探し回った。 すぐに廊下の先の方に、ガウン姿のジュールが現れたので、フィリップは走り寄ると、唾を飛ばしてわめいた。
「貴様、マルゴをどうするつもりだ!」
「静かに」
と、ジュールは沈んだ声で遮った。
「よく寝ているんだ」
「嘘つけ!」
「では見てみろ」
 ジュールが指差す寝室に踏み込んで、フィリップの顎はがくりと落ちた。 マルゴは確かに眠っていた。 肩までシーツをかけ、月の光に横顔を照らされて、小さな寝息を立てていた。
 フィリップは、2,3度唾を飲み込むと、マルゴに近づいた。 麻薬でも飲まされているのではないかと疑ったのだ。 男の手を額に感じて、マルゴは薄く目を開けた。 そして、手の持ち主がフィリップだったので、眼を大きくした。
「フィリップ…… どうしてここに?」
「どうしてもこうしてもあるもんか」
 フィリップはくさった。
「タンタンがひどい目に遭わされたと聞いて飛んできたんだぞ」
「タンタンが自分でそう言ったの?」
「いや」
 フィリップは渋面になった。
「あの子は喜んでいた。 伯爵は酒くさいが親切だと言っていた。 だがマリーがのぼせていて……」
「マリーは人のいうことをすぐ鵜呑みにするのよ。 臆病なの。 心配して来てくれたのはうれしいけど、私もタンタンも大丈夫。 そうだ、明日あの子を返してね」
「君の度胸には参ったよ」
 フィリップは形容の言葉が見つからない様子だった。
「何が何でも連れ帰るつもりだったんだぞ」
 枕に半分顔を埋めて、マルゴは眠そうに答えた。
「ずいぶんあなたにはお世話になったから、これ以上迷惑はかけられないわ。 おやすみなさい、フィリップ。 私はここにいるわ」
 戸口を出ながら、フィリップはつぶやいた。
「迷惑なものか。 君がいないと寂しくて……」

 次に意識が戻ったのは夜明け前だった。 再度抱き寄せられて耳に熱い息を感じたとき、マルゴは深い海の底から戻ってきた。 漂うような心地よさだった。 ジュールはマルゴの全身にキスしていた。 ただし、首から上をのぞいて。 ゆっくり彼のしなやかな体がマルゴの上をすべり、波打った。 マルゴは目を閉じたまま、じっとしていた。
 彼の体は温かかった。 マルゴは、その気持ちのいいぬくもりを持った体に腕を回して抱きしめたかった。 以前、マルゴとエレはいつも抱き合って眠っていた。 その頃の安心感が戻ってきたような気がして、マルゴは勇気を奮い起こし、腕を上げかけた。
 ちょうどそのとき、ジュールは体を離し、床に下りてガウンをまとった。 マルゴは薄目をあけて彼の動作を見守っていたが、振り向いたので、あわてて目を閉じた。 ジュールはしばらくじっとしていた。 それから、ほとんど足音も衣擦れの音もさせずにドアから出て行った。

 朝日が昇る様子を、マルゴは窓に手をついて、夢心地で見つめていた。 こんな目覚めの朝が来るとは、思ったこともなかった。 願ったことさえなかった!
 恋なんて、初めからあきらめていた。 一生自分には縁のない、別世界のできごとだと信じきっていた。 だからジュールがどんなに好きでも、恋じゃないと自分に言い聞かせてきた。
 もう愛してもいいんだ・・・・マルゴは両腕を一杯に朝日目がけて差し延ばし、ゆっくり折り曲げて自分を抱いた。 そして、小さくささやいた。
「好きです」
 涙があふれて、日輪が赤くぼやけた。
「愛しています。 あなたを、 あなただけを」

 あまり早く起きすぎるのは迷惑なので、マルゴは6時半にそっと着替え、階下に降りた。 広間はがらんとしていた。 台所で人の話し声がする。 マルゴが入っていくと、よほど驚いたのだろう、女中頭らしい中年女が、大きな音をさせて鍋を落とした。
 台所には3人働いていた。 女中頭がお辞儀をしたので、マルゴは何気なく尋ねた。
「旦那様は朝、何を召し上がるの?」
 とたんに三人は顔を見合わせ、具合悪そうな表情になった。 お互いに目くばせし合った後、やはり代表で女中頭が答えた。
「伯爵様は宮廷に行かれました。 当分お帰りはないそうです」

  牛の腸で作った風船を針で突いたように、マルゴの喜びはしぼんでしまった。
 ――ジュールは私が気に入らなかったんだ――
 そう思うと、胸が焼けるように切なかった。

 午後に、約束通り戻ってきたタンタンを抱いて、マルゴはぼんやり考えていた。 会いたい。 ジュールに会いたい! だが、追いかけていくのは命がけだった。 宮中に戻ったということは、王弟の元に帰ったということだ。 強大な恋敵を思って、マルゴは暗然とした。

 今度ばかりは、フィリップの助けを借りることはできなかった。 マルゴはエレに手紙を出して、店で落ち合った。
 親友で姉妹の顔を見るとすぐ、マルゴの胸から声があふれた。
「私、あの人を叩いたの」
 エレはうなずき、マルゴを椅子に座らせた。 マルゴは手を固く握り合わせて、呪文にかかったように話しつづけた。
「大暴れしたの。 でもあの人は何もしなかった。 黙って、されるがままになっていた。 そのうち、私はあの人の腕に嵌まりこんでいたの、自分から……」
 エレの眼が、次第に大きく広がった。
「それじゃ……」
「エレ、恋がどんなものか知ってる?」
 エレは口を開き、また閉じた。 マルゴは弱々しくささやいた。
「私は知らなかった。 自分が恋に落ちてるなんて想像もできなかった。 ずっとジュールが忘れられなかったけど、まさかそれが恋なんて」
「マルゴ」
 途方に暮れて、エレはマルゴを抱きしめた。 マルゴは虚ろな瞳を見開いていた。
「彼は行ってしまったわ。 宮廷へ。 王弟のところへ。 仕返しがすんだから、もう私には用がないのよ」
「それはちがう」
 エレは断言した。 これだけは確信を持って言い切ることができた。
「フィリップが言ってた。 婚礼の夜、ジュールは幸せそうだったって。 あんな間抜け面をしている彼は見たことがなかったんだって。 だから、行ってしまったんじゃなく、いやいや行ったんだ」
 マルゴの顔を手で挟んで、エレは元気づけた。
「宮廷に行こう。 夫が出仕してるんだから、妻が行くのに文句をつける理由はない。 ただし、用心は必要だけど」



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