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黄金の日輪を越えて

第 38章 観劇の日
エレと久しぶりに語り合った夜が明けて、マルゴは再びヴェールをまとい、小鳥の声に包まれながら広い中庭を歩いていた。
今日は店に行かなければならない。 店員たちはしっかりしているが、それでも店主が管理しなければならないことは沢山あった。
幸い、店はルーブル宮から歩いていける距離にある。 8時半には着くだろう。 象牙の櫛がチュニスから輸入されているとエレから聞いたが、販路を見つけられるだろうか。
忙しく考えながら歩いていたマルゴの足が、不意に止まった。 2人の供を連れた大柄な貴族が、大股で中庭を横切り、こっちへ進んでくる。 マルゴはその顔に見覚えがあった。
急いで腰をかがめて姿勢を低くして、マルゴは国王をやり過ごそうとした。 王は侍従に話しかけながら、勢いよく歩いている。 お辞儀している女には目もくれないように見えた。
しかし、マルゴのすぐ前で、不意に足音が止まった。 そして、声が降ってきた。
「道徳堅固な伯爵夫人。 そなたのせいで、わたしはエラン侯〔=フィリップ〕と怒鳴りあう羽目になったよ」
「あの……」
息が止まりそうになりながら、マルゴは辛うじて声を出した。
「お許しください。 重ね重ねの失礼を……」
「許さないでもない。 ただし条件がある。 今はダンジャン公夫人のところにいるようだが、別に部屋を設けさせる。 そちらへ移りなさい」
国王たちの後ろ姿が小さくなっていくのを、マルゴはぼんやりと見つめた。 暖かい朝なのに、足元から震えるような冷気が這い登ってくる。 国王が用意する特別室・・・・それは大抵の場合、寵妃のためのものだった。
二週間ぶりに行った店では、やることが山ほどあった。 しかしマルゴは上の空で、機械的に指示を出しながら、まったく別のことを考えていた。
なぜ国王は私を見分けたのか。 なぜエレの部屋にいると知っていたのか。 マルゴの唇が、強く引きしめられた。 スパイだ。 そうとしか考えられない。 国王はダンジャン侯爵を信用せず、彼につながる一族すべてを、スパイに見はらせているのだ!
でもなぜ特別室を…… マルゴは泣きそうになって唇を強く噛んだ。 誰もが寄ってたかって自分をジュールから引き離そうとしているとしか思えない。 ほんの数日前までジュールから逃れることばかり考えていたくせに、マルゴは国王を、王弟を、王家一族を夢中で呪った。 あんな連中、死んでしまえばいい!
その日から、マルゴの孤独な戦いが始まった。 国王は忙しい。 幼い頃から危険にさらされ、人を信用しなくなっているので、すべてを自分ひとりでやろうとする傾向が強く、政務の山に埋もれている。 だから、気まぐれで目をつけた女など、すぐに忘れるはずだった。 目の前をちょろちょろしなければ。
それでマルゴは、移動作戦を開始した。 麗々しく『ロメーヌ伯爵夫人御用室』と名札が掲げられた寝室にはほとんど入らず、彼女は店に近い宿屋を転々とした。 店に出る時間は毎日変え、連絡を取りにくくした。 週に2度はジュールの屋敷にいるタンタンに会いに行ったが、毎回曜日を変えた。
マルゴがここまでするには、ただ嫌だという以上に、わけがあった。 妻が国王の愛人になってしまうと、夫は近づけなくなる。 王の《所有物》には、たとえ正式な夫でも手が出せなくなるのだった。
幸い、国王はマルゴの寝室まで見張ってはいなかったようで、この《ゴキブリ作戦》は成功した。 エレによると、愛人の本命はラ・ヴァリエール嬢からモンテスパン夫人に移り、その他にもちょこちょこと浮気していて、王の性生活は充実しているとのことだった。
その晩は、モリエールの新しい劇が上演されるというので、宮廷は活気づいていた。 人目につくことを極端に避けていたマルゴも、この芝居だけは見たいと思った。 宮廷中の貴族がつめかけるのだから、人ごみに紛れていれば誰にもわからないはずだ。 マルゴはそっと立ち見の人垣の背後に立って、隙間から背伸びして劇を楽しんでいた。
その腰に、すっと腕が巻きついた。 仰天して首を動かすと、フィリップの陽気な顔が微笑みかけていた。
「よう、マルゴ。 ずいぶん会えなかったね」
ほっとして、マルゴは溜めていた息を大きく吐いた。
「びっくりした!」
「せっかく来たのに、ここじゃ全然見えないだろう」
そう言うとすぐ、フィリップは人を掻き分け始めた。 連れて行かれるマルゴは、あわてて逃げようとしたが、フィリップはしっかり抱き止めて、てこでも放そうとしなかった。
「失礼、ちょっと通してください」
困ったことに、フィリップは人気があるので、誰もが快く通してくれる。 先頭近くまで引っ張っていかれて、マルゴは困り切った。
芝居の題は、『女房学校』だった。 見ているうちに、いわゆる寝取られ亭主の話だとわかって、マルゴは顔を上げられなくなった。
フィリップは我が物顔にマルゴの体に手をかけて引き寄せている。 右の方にジュールがいるらしく、人々の視線がちらちらと、マルゴとジュールを行ったり来たりするので、マルゴは身の置き所がなかった。
芝居が大成功のうちに終わって、観客がざわざわと席を立ち始めると、マルゴはフィリップを振り払って歩き出した。 フィリップはにやにやしながら追ってきた。
腹が立って、マルゴは追いすがる彼の手をぴしゃりと叩いた。
「劇の内容を知ってたでしょう」
「知ってたよ」
フィリップはしゃあしゃあと答えた。
「よくできた芝居だったよな。 とても面白かった」
「つまらない嫌がらせは止めて」
突如、フィリップの手が強い力でマルゴの手首を掴んだ。 彼の目は、笑っていなかった。
「君のせいだよ。 君が裏切ったから」
あまりにも強い視線に、マルゴは自然と下を向いてしまった。
「君を愛してる。 物心ついてから、ずっと好きだった。 一緒に暮らせて幸福だったのに、君は奴を選んだ」
「……どうしようもなかったの。 彼は……」
「彼は、なんだ?」
フィリップは激しく迫った。
「あいつも君と暮らしたかった。 立場は同じじゃないか」
説明できない。 フィリップを苦しめるだけだから。 マルゴは、頬に影が落ちるほど長い睫毛を上げて、やっとの思いで言った。
「今も同じ立場でしょう? 私はあの人と別居して、もう一ヶ月よ。 夫婦なんて名ばかり。 これで満足でしょう?」
フィリップは唸り、ようやく手を離してくれた。
一難去ってまた一難、とはこのことだった。 フィリップと別れて階段を上りかけたマルゴの前に、王の侍従が立って、いんぎんに挨拶した。
「陛下におかれましては、今夕の晩餐会にぜひご出席をたまわりたいと」
マルゴは頭がふらついた。 フィリップのせいだ。 彼が国王にマルゴを思い出させてしまったのだ。
夜の9時半に始まった晩餐会は、気のおけないやや小規模なもので、丸いテーブルがいくつか置かれ、6人ぐらいずつが座ることになっていた。
マルゴの席は、国王とコルベールの間という、破格の扱いになっていた。 向かい側にはエレがいる。 エレだけがマルゴの頼りだった。
国王は、聞きしに優る健啖家だった。 色々としゃべりながら、食べる、食べる。 歯が欠けているにもかかわらず、鶏のフリカッセから始まって、七面鳥の網焼きやら、山ウズラのスープやらと、次々平らげていった。
その合間に、王の手は何度もさまよい出て、マルゴに触れた。 さりげなくよけるのだが、すっと脇腹を撫であげられ、冷や汗が出た。その手はそのまま下がっていき、スカートに入り込んで、膝を掴んだ。 マルゴは思わず椅子から飛びすさり、給仕にぶつかりそうになりながら、バルコニーに逃げ出してしまった。
あっけに取られた国王に、エレが急いで耳打ちした。
「胃の調子が悪いのです。 ここで吐いたら陛下に大変ご迷惑ですから」
「そうか」
もやもやした表情ではあったが、国王はうなずいた。
こんどこそ不敬罪で処分が下されるだろう・・・マルゴはとぼとぼと自分の部屋へ行った。
ずいぶん久しぶりだ。 窓枠が埃でうっすら白くなっている。 女主人がいないと、小間使いたちは気が緩んで、掃除をさぼっているらしかった。
人ばらいをして、ぼんやり椅子に座っていると、不意にドアが開いた。 廊下をうかがいながらすべりこんできたのは、ジュールだった。
マルゴは、バネ仕掛けの人形のように、椅子から跳ねて立ち上がった。 あまりの驚きに、目の前が白くなりかけた。
見間違いではない。 それは確かに、灰色のきりっとした服を着たロメーヌ伯爵だった。
こんなときなのに、マルゴは彼を見て、幸福感で胸が痛くなった。 ジュールは緊張した表情でマルゴに近づくと、低い声で言った。
「自分が何をしたか、わかっているのか?」
充分わかっていた。 人々の面前で国王を振ったのだ。 でも、他にどうしようがあっただろう。
「陛下が脚をさわったから」
と、マルゴは口の中で呟いた。 すると、ジュールはもっと近づいて、すれすれの距離で立った。
「さわられるぐらい、何だというんだ」
「いやなの。 どうしても」
ジュールの眉が、ぎゅっとしかめられた。 本気で腹を立てている様子だった。
「そんなわがままが通ると思ってるのか? 今夜はダンジャン侯爵夫人がうまく言い訳してくれたから助かったが、あのままなら即、修道院行きだぞ」
ほっとして、涙が出てきた。 マルゴはしょんぼりして、小声で詫びた。
「ごめんなさい」
「私にあやまってどうする!」
やり切れないといった顔で、ジュールはマルゴの肩に手をかけた。
「さわられるのが嫌だ? それなら免疫をつけてやる。 こんなことをされたら、もっと嫌だろう?」
あっと思う間もなく、唇が激しく重なった。 熱い息が口の中に吹きこまれ、荒々しく手のひらがマルゴの背中を上下した。 マルゴはもうろうとなった。 足が揺れ、力が失われ、思わず両手をジュールの首に回したが既に遅く、強くぶらさがってしまった。 がくんと引っ張られて、ジュールは思わず膝をついた。 そしてそのまま、床に崩おれた。
背景:Kigen
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