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黄金の日輪を越えて

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第 39章 王の訪れ



 私は何一つ知らない。 これはいったい何なんだろう・・・・瞼を上げる力がなくなったとき、マルゴはぼんやり考えた。 それからは、考える力さえなくなった。
 乾いた息の音が聞こえる。 走り回る仔犬のような息。 マルゴは男の情熱を受け入れながら、顔をかすめるその息を、胸一杯に吸い込んだ。
 やがて動きは止み、ぐったりとなった体が覆い被さった。 首筋に埋まった顔は、汗でしっとりと濡れていた。 胸から淡い山百合の香りがただよう。 この瞬間を心と体に刻みこみたくて、マルゴは固く目をつぶっていた。
 ジュールの顔がわずかに動き、マルゴに頬ずりした。 それが別れの合図だった。 彼は静かに起き上がると服装を整え、無言で部屋を出て行った。 扉を開けるため横顔を見せたとき、唇を血が出るほど噛んでいるのが見えた。
 あられもない姿のままで、マルゴはじっと床に横たわっていた。
――薄暗い森の小道で、2人の追いはぎに襲われたときも、こうして地面に置き捨てられた。 あのときの絶望的な恐怖から、生涯抜け出せないと思った。 だが神さまが哀れんで、私に夢の人を下さった・・・・――
 不意にマルゴは、色を失って飛び起きた。 重大なことに思いいたって。
 国王に触れられたとき、頭の芯を直撃した嫌悪感、あれは以前と全く同じ感覚だった。 恐怖は今でも、マルゴの中に強く根を張っていた。 キスや愛撫を受け入れられるのは、天にも地にも、ジュールただ一人なのだった。

 翌日の夜、執行猶予期間が切れた。 国王がついに、マルゴの部屋に忍んできたのだ。
 王が、外した剣をテーブルに置き、手を取って口に持っていくのを、マルゴは激しい緊張感で見守った。 ジュールのために、彼までが罰せられるのを防ぐために、できる限り我慢しようと、マルゴは心に決めていた。
 だが、下着姿になって王に抱きかかえられたとたん、全身が総毛立った。 気がつくとマルゴはベッドから飛び出して、追いすがる王の手を振り払い、窓をこじ開けて、裸足で地面に飛び降りていた。
 そのままマルゴは走りに走った。 行く先はひとつ、ジュールの眠る部屋だった。
 黙って去ることはできない。 一言でも別れが言いたかった。 これまで一度も行ったことはないが、部屋の位置は心に刻み込まれていた。
 エレほどではないにしても、マルゴの運動神経は相当なものだった。 庭に面した窓をそっと開くと、軽々とよじ登って、寝室に忍び込んだ。

 部屋には月光が斜めに射しこんでいた。 ジュールがベッドの真ん中に横たわっている。 生まれたての赤子のように全裸で、片腕を枕にしてぐっすりと寝入っていた。
 あまりに安らかな寝顔なので、起こすことができなかった。 マルゴはベッドの脇に座り込み、いとしい顔に見入った。 見つめながら考えていた。
――モンテスパン夫人は毒薬に詳しいとか。 高くてもかまわないと言えば、きっと譲ってくれるだろう。 私が食中毒で死んだことにしてもらえば、誰にも類は及ばない
 タンタンはエレが世話してくれるだろうから、私の遺産は全部あなたのものになる・・・・――マルゴは心の中でささやいた。

 勢いよく揺り起こされて、マルゴははっと目を覚ました。 すぐ前に、ジュールの青ざめた顔が見える。 しまった、いつの間にか寝ていた! マルゴはあわてて、ベッドの柱に寄りかかっていた体を起こした。
 ジュールはひどく動揺して、口がもつれていた。
「いつ……いつからここにいたんだ!」
「11時頃から」
「一体全体なぜここに来た!」
「あの……」
 マルゴは縮みあがり、どうしていいか分からなかったので、本当のことをしゃべってしまった。
「王様が部屋に来たから、私、怖くて……」
 鼓動が五つ打つほどの間、ジュールは石になったようにマルゴに眼を据えていた。 それから、息だけで言った。
「逃げてきたんだな」
 マルゴは、うなずくしかなかった。 ジュールは枕を叩き、天を仰いだ。
「いいかげんにしろ! 国王は女に手荒なことをする人じゃないぞ!」
「やさしくされても嫌なものは嫌だわ」
「それは反逆だ!」
 珍しく、ジュールは本当に逆上していた。
「いいか、この宮廷には、国王の情けを願っている貴婦人がひしめいているんだぞ」
「だからそういう人のところへ行けばいいんだわ」
「おい!」
 ジュールは勢いよく、マルゴをベッドの上に引き上げて押し倒した。
「自分の立場をわきまえろ! 王の怒りを買ったらどうなるか、わかってるだろう?」
「罰を受けるなら、そのほうがいい」
 ジュールの手が緩んだ。 どうしようもないという表情が、青白い顔に広がった。
「君は狼より強情な頑固者だ」
「違うわ……」
 マルゴは説明しようとした。 しかし、どうしても言葉が出てこないのだった。
 ジュールは音を立ててベッドに転がり、寝返りを打った。 そして、独り言のようにつぶやいた。
「頑固者でないなら、こり固まった結婚制度の信奉者だ。 もっと悪い」
 マルゴは小さくなっていた。 ジュールは、やがて溜め息をつくと起き上がり、抑揚のない声で言った。
「国王に会いに行ってくる。 君が純朴な田舎で清らかに育ったと話してみよう。 それで駄目ならコロンビエと夜逃げだ。 それにしても……」
 大理石に刻んだような横顔が崩れて、苦笑いに近い表情が浮かんだ。
「君には宮廷の常識がまったく通じないんだな」
 マルゴは必死になって申し出た。
「あなたに迷惑かけたくないわ。 私が行きます。 修道院でもどこにでも!」
「よせ!」
 ジュールは真剣な顔になって、鋭く言った。 それから不意に身をかがめ、マルゴにキスした。 短いが、燃えるようなキスだった。

 翌日、エレが部屋に来て、ジュールが王弟の館に行くことで決着がついたと教えてくれた。
「あんたは自分の屋敷に戻っていいって。 国王はあんたに本気になりかけてたんだ。 だからそれに気づいて、逆にそばに置いておけなくなったらしい。 彼は女好きだけど、けっこう考え深いところもあって、情熱に溺れるのを恐れてる。 そこをロメーヌ伯がうまく利用したわけ。
 元気出して、マルゴ。 最小の被害ですんだんだから」

 新しい年が明けた。 王が本拠地とする予定で宮殿を建てはじめたヴェルサイユで、空前の規模の饗宴が3日間に渡って催されることになり、主だった貴族はすべて招待された。
 マルゴにも招待状が来た。
 最終日は、大花火大会だった。 シューッという音と共にオレンジ色の火の玉が虚空に打ち上がると、その度に歓声がこだまする。 マルゴもダンジャン侯爵の取り巻きに混じって、冬の花火を目で追っていた。
 その最中に、エレが袖を引いた。 そして耳元でささやいた。
「半獣神の石像の横で、彼が待ってる」
 たちまちマルゴは人ごみを離れ、建物の横を通り抜けた後は、全速力で走った。

 石像の周囲は静かで、人の気配はなかった。 だが、息を切らせながら必死で見回したマルゴの目は、木陰でかすかに光る残像を捕らえた。
 マルゴは再び走り出し、森に飛び込んだ。 そこには豪華な銀白色の服に身を包んだジュールが立っていた。
 飛びつきたかったのに、どうしても足が前に進まなくて、マルゴはあえぎながら立ち止まった。
 ぎこちない笑みを浮かべて、ジュールは言った。
「修道院送りにならなくてよかったな」
 うつむいて、マルゴは小さく答えた。
「代わりにあなたがオルレアン公(=王弟の新しい爵位)のところに……」
「ひとを生けにえみたいに言うなよ」
 軽い口調でジュールははぐらかした。 だが、マルゴは言わずにはいられなかった。
「清潔なあなたには耐えられない場所でしょうに」
「清潔!」
 ジュールは噴き出した。 相変わらず息だけの、不自然な笑い声だった。
「あの館でわたしの正体を見たのに、どうしてそんなことが言える?」
「以前のあなたを知ってるから。 ナントのあなたは純情で、胸が痛くなるほど優しかったわ。 この世のものとは思えないほど……」
「夢を壊して悪いが」
 ジュールはそっけなく言った。
「ナントに行く前のわたしは、男色で有名なグロブレ公爵の小姓だった。 君が同情していたあの子供、あの子と同じ年ごろには、何人もの貴族の相手をさせられていた」
 マルゴは棒を呑んだようになった。 心細げな薄い背中、おびえた哀しい眼、そしてあの丁寧な言葉遣い…… 糸が切れたように、マルゴはジュールの腕に飛び込み、胸に顔をつけた。
「ひどい人たち……」
 そっとマルゴの肩を持って遠ざけると、ジュールは早口で言った。
「君の頭はわたしに同情し、共感しようと思っている。 だが、君の心は……」
 最後まで言わず、ジュールはマルゴを残して去っていった。



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