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黄金の日輪を越えて

第 41章 真実の姿
アニェスが闇に消えた後、マルゴの世話係に昇格したドロテアが、ある晩そっと耳打ちした。
「奥方様、お食事に毒が混ぜられているのをご存じですか?」
マルゴは、心臓が不規則に鳴るのを感じながら、問い返した。
「え?」
小間使いはいっそう小声になった。
「実は、旦那様のお言いつけなんです」
ふっと緊張がとけて、マルゴは笑い出しそうになった。
「まさか!」
「いえ、本当です」
娘はむきになって言いつのった。 少し腹が立ったマルゴは、冷たく答えた。
「強壮剤か何かよ。 疑い深いのね」
エレとフランソワはマルゴに護衛をつけた。 別々につけるところがこの夫婦らしいが、どちらの護衛も守りきれないところが一箇所あった。 それは宮廷の最も奥まった、王族専用の区域だった。
マルゴは二度、手紙をことづかって、そこに入ったが、別に何も起きないので、心のどこかでほっとしていた。 しかし、三度目に恐怖が訪れた。 王妃の部屋に親書を届けるよう申しつかって、マルゴが一人で長い廊下を歩いていると、途中のドアが突然開き、いきなり手が出て、有無を言わさず中に引きずりこんだ。
手首の短剣を探ったマルゴは、消えているのを知って、心臓が止まりかけた。 家の中にスパイが入り込んでいて、ひそかに守り刀を盗んでしまったのだ。
目前にいたのは王弟だった。 彼の顔には、エレが以前《人殺しの顔》と名づけた、見まがいようのない残忍な表情が浮かんでいた。
「魔女め! よくもジュールをたぶらかしてくれたな!」
と、王弟は軋るような声で言った。 マルゴは思わず後ずさりした。
「おまえをフィリップから取り上げたい、とジュールは言った。 あの二人は前から犬猿の仲だったから、わたしはジュールの肩を持ってやった。
それがどうだ! ジュールはおまえの言葉に笑った。 おまえを女王のように扱った!」
「お聞きください!」
と、必死でマルゴは叫んだ。
「ジュ……ロメーヌ伯爵は、私など愛していません! 私はほんの気まぐれの相手。 召使のようなものです。 殿下は殿方のささいな遊びまで目くじらをお立てになるのですか?」
「ささいな遊びだと!」
王弟は金切り声を上げた。
「遊び相手をなぜジュールは必死に庇う! なぜ生まれる子を他人の子と見せかける! ジュールはおまえに夢中なのだ。 おまえなしには夜も日も明けない。
こんなことが許せるか! 彼はわたしのものだ。 いいか、わたしのものなのだぞ!」
わめきながら、王弟はマルゴに盃を差しつけた。そして命じた。
「飲め」
マルゴは、しびれる指で、自動的にその盃を取った。 王弟は、泣かんばかりだった。
「これが他の女なら、たとえばエレーヌなら理解もできる。 よりにもよって、おまえとは! 誰の子かもわからん給仕女にわたしのジュールが……!」
給仕女…… マルゴの全身を恐怖が生き物のように掴んだ。 それがジェラールさんを殺してまで私を探そうとした理由なのか・・・・
マルゴはようやく悟った。 王弟はとっくに感づいていたのだ。 ジュールが急に冷たくなった理由を。
もう道はない。 ふるえながら、マルゴは一気に飲み干した。 苦しみは短いほうがいい。 王弟は、陰気な満足の表情で見守っていた。
時は刻々と過ぎていく。 餌食のもだえ苦しむさまを待っていた王弟は、やがて落ち着きがなくなった。 マルゴはぼんやり立っている。 痙攣も、失神も、何も起こらない。
とうとう王弟は躍りあがった。 息が詰まって、しばらく言葉が出なかったが、やがて奔流のようにほとばしった。
「見ろ! 自分を見てみろ! 死なないじゃないか! ジュールがおまえを守ったんだ。 薬を少しずつ飲ませて免疫にして。 それこそ何よりの証拠だ。 ジュールはわたしを恐れる理由があったんだ! おまえを……おまえなんかをそこまで大事にして!」
王弟は剣を抜いた。 鬼のように引きつった顔を見たとたん、マルゴは反射的に彼に盃を投げつけた。 王弟がひるむ間に、マルゴはドアを引き開け、しゃにむに廊下を走り出した。
髪を振り乱し、真っ青な顔で大広間に駆け込んできたマルゴを、数人の貴族が一斉に振り向いた。 マルゴは立ち止まった。 そこへ、抜き身を持った王弟が飛び込んできた。
目に無言の哀願を込めて、マルゴは順ぐりに貴族たちを眺めた。 しかし、彼らは困惑の表情で、さりげなくドアの方へ後ずさりしていった。 みな王弟の怒りに触れて自分たちが暗殺の標的になる危険を冒したくないのだ。 間もなくマルゴは、王弟と二人きりで大広間に残された。
覚悟を決めて、マルゴはしっかりと足を踏みしめて立った。 しかし、王弟のきゃしゃな手が剣を繰り出そうと構えた瞬間、白っぽい人影が音もなく走りよってきて、いきなり王弟を背後から抱き止めるなり、首に短剣を押し当てた。 それは、冷たい怒りに凍りついた顔の、ジュールその人だった。
そこへ、衛兵を伴った先ほどの貴族たちが駆け込んできた。 逃げたのではなく、権威ある助けを求めに行ったらしい。 だが、眼前に繰り広げられている衝撃的な場面を見て、一同は石のように立ちすくんだ。
誰も一歩も踏み出せない。 沈黙の壁の中で、マルゴは震えながらジュールの顔を見つめていた。 ジュールは、食い入るようにマルゴを見返して、短く言った。
「逃げろ」
その声、その表情に、マルゴは鮮やかに記憶を蘇らせた。 ゴットワルトを串刺しにしたときの、氷のような決意と冷静さが、今再びジュールの顔に表れていた。 ジュールは死を覚悟している・・・・マルゴの脳裏が、底なし沼のような恐怖で一杯になった。
びくとも動かないマルゴを見て、ジュールの声が鋭く変わった。
「さっさと行け! わたしはこの低脳の道楽者に縛られるのにうんざりしてしまったんだ。 《地獄の貴公子》にふさわしく、王子を道連れに地獄行きだ」
「やめて」
自分でも奇妙に思えるほど静かな声が出た。 マルゴはひたとジュールを見つめたまま、ゆっくりと近づいていった。
「あなたにはできないわ。 やりたくてもできるはずがない。 剣を抜いて向き合えば殺せるでしょう。 でもあなたは、決して暗殺者にはなれないわ」
催眠術にかけられたように、ジュールの眼が虚ろになった。 マルゴは二人の前に立ち、体中の力を声に変えて言った。
「大好きなあなた、自分を大切にして。 あなたはこれまで、行きたいところにも行けず、やりたいこともほとんどできなかった。
このままで人生をあきらめてしまうなんて悲しすぎる。 生きて、あなた。 生きて自由の身になって!」
小さな音がして、短剣が床に落ちた。 同時に王弟は気を失い、ジュールの足元に崩れた。
静まり返った部屋のどこかから、深い吐息が響いた。 それが合図になったように、警備隊長のユルザック公がジュールに歩み寄り、低く告げた。
「残念だが、君を逮捕しなきゃならない」
マルゴは必死でユルザック公にすがった。
「この人を牢屋へ入れるのはやめてください! 私を助けようとしただけなんです!」
公は、やさしくマルゴをなだめた。
「宮中で剣を抜くのはご法度なのです。 でもバスティーユでは決して手荒い扱いはしません」
ジュールの長い指が、そっとマルゴの渦巻く髪を撫でた。
「マルゴ、もうわたしに構わないほうがいい。 君は若いし、有力な味方がいる。 すぐに離婚を申し出なさい」
愕然として、マルゴは激しく首を振った。
「いや」
「マルゴ、これは夫として最後の命令だ。 わたしとは別居中で悪魔の所業は何一つ知らないと証言しなさい。 一日でも、一分でも早く、わたしから離れるんだ」
「いや! そんなことできない! 何が悪魔よ! あなたは私のただひとりの天使。 あなたが苦しむなら私にもその苦しみを分けて。 ジュール、お願い……」
耐えられなくなって、マルゴの黒い瞳に涙があふれた。
ジュールの口が開いた。だが言葉は出ず、代わりに夢中でマルゴの唇を求めた。 二人は幾度も口づけ合い、お互いの感触を確かめ合った。
ようやく顔が離れると、ジュールは早口で言った。
「苦しむなんて許さない。 君に何かあったらわたしも生きてはいない。 わかるな、どんなことをしても生き延びろ。 どんなことをしても!」
「ジュール!」
ジュールは頬ずりしながらささやいた。
「サン・シモンの僧院に行くんだ。 あそこは治外法権になっていて、誰も手が出せない。 君と子供に、神のご加護がありますように!」
二人を見つめる貴族たちは、しびれたようになっていた。 偽装結婚、財産目当て――それこそが偽装だったことをようやく悟って。
「ジュール! 私も一緒に……!」
最後まで言わせず、強い手が、泣き叫んでいるマルゴの腕を取って引いた。 フィリップの手だった。 半ば引きずられていきながら、マルゴはジュールが腰の剣をユルザックに渡し、並んで向かい側の扉に向かって歩いていくのを、懸命に目で追い続けた。
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