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黄金の日輪を越えて

第42章 宗教裁判
不幸続きの人間には、更なる不幸を予見する能力が備わるのかもしれない。
ジュールが必死にマルゴを逃がそうとしたのは正しかった。 初めのうち、ジュールは反逆罪ではなく、単なる決闘の延長として裁かれ、せいぜい半年の入牢ですみそうなところまで扱ぎつけた。
ところが、まったく意外な横槍が入った。 3年前、ジュールがもっとも荒れている時期に書いた小冊子が突然持ち出され、不信心者、反教会の魔王として、宗教裁判にかけられることが決定した。
あの覚悟の言葉が、本当に別れの挨拶になる恐れが強くなってしまったのだ。 マルゴは我を忘れた。 危険を冒してサン・シモンを抜け出し、公開裁判を見に行った。 そして、被告席に引き出されてぐったりと座るジュールが、一段とやせ細り、きれいな長い指が拷問で曲がっているのを遠くから覗き見て、気を失いそうになった。
宗教裁判の被告は、面会が許されない。 それでもマルゴは牢獄に通い、牢番にワイロを渡して、手紙と着替えをこっそり届けてもらった。
ありとあらゆるコネを使い、小間物店の利益を湯水のように費やしたが、何の甲斐もなかった。 よほど強力な力が、この理不尽な裁判には働いているらしい。 その陰の力を探り出そうとして、マルゴは身重の体をおして奔走した。
そして、遂に敵の正体がわかった。 裁判所の書記官を買収して、その名を聞いた瞬間、マルゴはあまりの意外さと衝撃に倒れそうになった。 ジュールを火刑にするだめに、密かに権力を行使しているのは、イエズス教団第二位の地位にまで上りつめたサンマルタン司教、つまり、ジルベールだったのだ。
なぜ…… なぜ、物静かで優しかったあの兄が・・・・マルゴに思い当たるのはたった一つ、はるか昔に思われる十六歳のとき、ジルとの結婚を断ったという、ただそれだけだった。
会いに行こう・・・・頭より早く、足が先へ進んだ。 やみくもに、マルゴは教皇庁に駈けつけた。 意外にも、案内を請うと、すぐ面会が許された。
そこは広く、天井の高い、おごそかな部屋だった。 壁一面に本が並んでいるほかは、机と椅子が2組あるだけだ。 ジルベールは今どき珍しく、本当に僧侶らしい謹厳な生活を送っているらしかった。
机の前に座って書き物をしていたジルは、マルゴを見ると、静かにペンを置いた。
「とうとう来たな」
水盤の水のような平坦な声が言った。 マルゴはふらふらと揺れそうになる首をやっとの思いで支え、懸命に立っていた。
僧服を着ているジルを初めて見る。 優雅で、上品だ。 面差しは今でもジュールによく似ているが、雰囲気はまったく別のものだった。
ジルは、鋼〔はがね〕だった。 黒い僧服の下に鎧のかたびらを着ていてもおかしくない。 闘う者の猛々しさが、静かな外見の奥でふつふつとたぎっていた。
子供のころ、この兄がわけもなく怖かったことを思い出して、マルゴの膝は震え出した。 どんなに優しくされても逃げたくなった。 同じ部屋にいるだけで、圧迫感がすごかったのだ。
もう衣装の上からはっきり見てとれるマルゴの膨らんだ腹部を見て、ジルはかすかに眉をしかめた。
「みにくいものだな。 汚れた欲望の果実か」
「生き物はみんなこうやって大事に子孫を残すのよ」
かすかにおののきながらも、マルゴは初めて果敢に兄に言い返した。
「農場にいたころ、家畜が増えるのを喜んでたじゃない!」
「家畜か」
皮肉な笑いが、ジルの口元に張りついた。「おまえの夫は、家畜小屋よりひどい地下牢にいるんだったな」
ひとごとのような言い草に、マルゴの眼が燃えた。
「陥れたのは誰?」
「身から出た錆だ」
ゆっくり立ち上がって本を一冊手に取り、指をはさむと、ジルは半眼でマルゴを見下ろした。
「どうした? 命乞いをしないのか? 大切な夫を助けてくれと、膝をついて願わないのか?」
からかっているような口調だった。 この人は変わってしまった、とマルゴは悟った。
「願えば叶えてくれる?」
わななく口で、マルゴはささやいた。 ジルは少し首をかしげた。
「兄妹として育ったよしみでか? やめてもらおう。 あの男は死ぬんだ」
「ジル……」
「気安く呼ぶな!」
思わず大きな声になってから、ジルは自制した。 端正な顔が、ふたたび能面に戻った。
「拷問は苦しい。 だが心の痛みはもっと苦しい。 そうじゃないか、マルゴ?
わたしがあの男を痛めつけると、おまえの心は倍の血を流す」
マルゴの胸が張り裂けそうになった。 ジルはナイフを取り出して、おもむろに本のページを切り開き、カタンと音をさせて机の上に置いた。 それから悠々と歩いて書棚に近づいた。 冷たい横顔を見せたまま、ジルは言葉を続けた。
「それに、どのみち命乞いしたところで手後れだ。 たしかにあの男はまだ生きている。 しかし、二度とおまえの夫には戻れないのだから」
「どういうこと?」
とマルゴはあえぎながら尋ねた。 すると、ジルは笑った。
「わからないか? ジュリアン・ダートルミーは素晴らしい歌手だそうだが、もう12,3年前に今の体になっていれば、生涯を美しいカステラートで過ごせたものを」
カステラート・・・去勢された歌手! マルゴの両耳に地鳴りが押し寄せた。 眼がくらみ、足がもつれたまま、マルゴは机の上のナイフを取り、ジルに背後から体当たりした。
かすかなあえぎが響いた。 しかし、ジルベールは書棚に寄りかかって、自分とマルゴの両方の重みを支えた。
やがてマルゴは全身を使って起き上がり、ジルから離れた。 背中の中央にナイフを立てたまま、ジルは本の背に頭をもたせかけていた。 金縛りになったように動けず、マルゴは義兄を見つめていた。 殺さなければ! この傷だけで死ぬだろうか。 ナイフを抜き取りたかったが、体中の力が抜けて、立つのがやっとだった。
そのとき、ジルベールの口が動いた。
「逃げろ」
マルゴは耳を疑った。 聞き間違いだ。 ジルがそんなことを言うはずがない。
「逃げるんだ。 これ以上ここにいる必要がどこにある」
マルゴは、恐ろしい寒気に襲われた。 この言葉は、悪口の十倍も無気味だった。
「なせそんなことを言うの!」
と叫んだマルゴの声は、金切り声に近かった。
ジルは、床に膝をつきかかっていた。 まっすぐな栗色の髪が、血の気の失せた額に降りかかった。
「心の痛みはもっと苦しいと言っただろう? おまえに嘲られながら死にたくないんだ」
マルゴは、手を固く握り合わせて胸を押さえた。
「あざけっているように見えて? ジル、あなたは私を地獄に落としたのよ!」
ジルは首をうなだれた。
「死にたがっている者を死なせて、地獄に落ちるだろうか」
マルゴは息を殺した。 世界が逆様になったような気がした。 立ちすくんでいるマルゴの足元に、ジルは本を伝いながら、ゆっくりと沈んでいった。
「道なら、迷ったとわかれば引き返せる。 だが、生きてきた道は引き返せない。おまえの夫はわたしに似ている。 そうだろう?」
「似ていません!」
マルゴは半狂乱になって叫んだ。
「そう思うか? あの男は一目でわたしの心を見抜いたぞ。 似ていればこそできることだ。 ただあの男とわたしの違いは、彼には希望があったということだ」
苦しそうな咳が床を這った。
「わたしは初めからあきらめていた。 同じ妾腹の半兄弟でありながら、フィリップは正式な子と認められ、華やかな服を着て、自由に振舞っていた。 わたしが畑や馬の世話で身動きできないでいるときに、おまえたちを呼び出して森で遊び、機嫌を取っていた。 あらゆる点で先を越されているのに、どうしてわたしが太刀打ちできる?」
マルゴは恐ろしい目まいを感じた。 どうしても飲み込めなかった。 いったいジルは何の話をしているのだろう。
「わたしは、おまえのためを思った。 フィリップの妻になれば、富も権勢も手に入る。 それが無理とわかって、初めておまえを愛していると父上に打ち明けた。 だが、おまえは……」
マルゴは、音を立てて床に膝をついた。
「許して! 許して、ジル! あなたが嫌で首を吊ろうとしたんじゃないわ! あのころは本当に誰も……どんな男の人も耐えられなかったの」
「死のうとしたおまえを、ジュリアンが助けた。 わたしにそっくりな顔をした、《本の紙魚(しみ)》が。 黙って本ばかり読んでいるんで、あいつはそう呼ばれていた。
誰とも付き合わず、誰のことも眼中になかった。 声を聞いたのはただ一度。 あいつに惚れぬいていた僧正が学校まで来てかき口説いたとき、言ったんだ。
『愛するってどんなことですか? わかりません。 説明してください』」
マルゴの眼に涙があふれた。 ジルがまた咳をした。 赤い血が、青い絨毯に点々と飛び散った。
「わたしに許されなかった幸福を、あいつに許すことができなかった…… またおまえを苦しめてしまったな…… 今度生まれるときはきっと……」
青年司教は床に横たわり、息を引き取った。
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