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黄金の日輪を越えて

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第44章  好きなのに




 広いコンデの屋敷で、エレはひとりだった。 マルゴは子供たちを連れて田舎に身を隠した。 そしてフランソワは、ヴェネツィア大使に任命されて、イタリアに行ってしまっていた。
 そうなるについては、また一騒ぎあったのだった。 同じ屋敷に住んでいてもろくに顔を合わせなかった二人だが、何のはずみか、派手なことが嫌いなフランソワが、跡継ぎであるアンリのお披露目会をすると言い出したので、珍しく一緒にその支度をしていた。 エレは、あら捜しの好きな貴族たちに馬鹿にされないように、家中を駆けずり回って片付けたり飾ったりした後で、疲れていらいらしていた。 フランソワが子供のことばかり気にかけるのも悔しかった。
「私の誕生日なんか、知りもしないくせに」
 ぶつぶつ言いながら広間を点検していると、出仕から戻ったフランソワが入ってきた。
「この屋敷は古くて設備が悪いから、客を呼ぶには向かないわ。 それを明日までに片づけろだなんて」
 エレがこぼしたのを、フランソワは聞きとがめた。
「君が生んだ子だろう。 正式な跡継ぎになって何の不満がある!」
 たちまちエレは逆上した。 最近は特に怒りっぽくなっている。 頼みにするマルゴはいないし、マルゴを失ったフィリップは故郷でいじけているし、おまけに自分の子なのにアンリとうまく行かないからだった。 妙な話だが、アンリは全くの父親っ子だった。 どこへ行くにもフランソワに付いて回り、何でも教えてもらっている。 そのせいで、悲しくなるほど字が下手だった。 アルファベットのCを裏返しに書くのを見たときは、ほんとに泣きたくなった。
「生んだだけじゃない! 独り占めにするなら、もっとしっかり学問を教えてほしいわ。 タンタンはあんなに賢いのに」
 思わずぐちが出る。 フランソワはじろりと妻をにらんだ。
「のに、とはなんだ。 アンリに文句でもあるのか?」
「どうしてそんなに可愛がるのよ!」
 とうとうエレは爆発し、言ってはいけないことを口走ってしまった。
「誰の子だと思ってるの?」
 しまった、と思ったときはもう遅かった。 フランソワの顔が、夕立雲のように暗くなった。
「自分から言い出したな。 よし、聞こう。 誰なんだ?」
「……あなたのよく知ってる人よ」
 そこまで言うのが精一杯だった。 フランソワは、鼻であしらった。
「そうだろうな。 フィリップか? それとも、噂になっていたギーズの奴か?」
「あなたがいけないのよ!」
 絶対そうだ、とエレは思った。 フランソワは片方の眉を上げた。
「わたしが構ってやらなかったからとでも?」
 エレは顔を真っ赤にした。
「かまいすぎたからよ! 修道院に放り込んだりするから! 目が醒めたら、レオンがいたのよ。 なぜか知らないけど。 それで大喧嘩になって、私が彼の手に噛みついて、彼が私を殴ったの。 それから抱きあげたらしいけど、覚えていない」
 フランソワの体が不意に前のめりになった。 危うくテーブルに手をついて支えて、彼は深くうなだれた。 
 あまり長くそうしているので、エレは不安になって、一歩近づいた。 すると、フランソワは顔を上げた。 わずかの間に、頬がこけ、目に隈ができていた。 ゆっくりと体を起こし、フランソワは地の底から響いてくるような声で言った。
「あいつは君を救い出しに行ったんだ」
「嘘よ!」
 エレは笑い出しそうになった。
「口を開けば私に嫌味を言ってた人よ。 死んじゃったからもう悪く思いたくないけど」
 そう、レオンは新型大砲の試射中に砲筒が暴発し、若い命を散らしていた。
 フランソワはいっそう青い顔色になった。
「知らなかったのか? 本当に気づいていなかったのか? あいつがどんなに君を愛していたか。
 父が2度目の結婚話を持ち出したとき、レオンはわたしに膝まずいて、断ってくれと頼んだ。 代わってくれたら一生恩に着るとまで言ったんだ。 だがわたしは……」
 こんどはエレがよろめく番だった。 
「そんなこと……知らない。 わかりっこないわよ! あの人は一言も」
「言えなかったんだよ!」
 フランソワはわめいた。
「自分を見ろ! 鏡で見てみろ! おまえと並んで釣りあう男が、何人いると思う!」
「バカじゃないの?」
 エレは本気で怒り出した。
「生まれたときからこんな顔よ。 悪い? でも中身はただの田舎娘。 あなたはおろか、レオンとだって釣りあわない。 ひがんでるのはこっちの方よ!」
 その口がへの字になった。 大きな眼からぽろぽろ涙がこぼれ出したので、フランソワはびっくりして歩み寄った。
「泣くな。 召使にわたしがいじめたと思われる」
「知るもんか」
 エレは号泣しはじめた。
「愛してるなら言ってよ。 口に出してよ! 一度も告白されたことなんかない。 みんな遠巻きにして見てるだけ。 レオンのバカ! せめて死ぬ前に、一言ぐらい言って死ね!」
 あわててフランソワが口をふさいだ。
「やめろ。 落ち着けって」
 エレがやけになって暴れたので、脚が引っかかった。 二人はもつれあって、どしんと床に倒れた。
「いたっ」
「大丈夫か」
 もぞもぞしているうちに、なぜか顔が近づいた。 エレは涙でくしゃくしゃになった頬をフランソワに押し付け、激しく唇を求めた。 髭が鼻にさわってくすぐったい。 彼は確かに腕の中にいた。 エレは夢心地で、がっしりした体を強く引きよせた。


 翌日の午前、フランソワはイの一番に国王に呼びつけられた。
 昼過ぎ、王はエレを呼んで言った。
「公爵をヴェネツィアに派遣することにした。 かまわないだろうね」
 エレはよくわからずにうなずいた。
「はい。 それでは準備がありますから屋敷の方へ帰らせていただきます」
「なぜ?」
 王はまったく表情を変えずに続けた。
「行くのは公爵だけだ。 そなたまで行く必要はない」
 たちまちエレは狼狽した。 どうしてそんな結論になるんだ!
「私もついていきます。 ついていきたいんてす。 妻ですから」
「行かせない」
 手にした書類に再び視線を戻して、国王は一言の元にはねつけた。
「そなたを手放す気はない。 わたしの傍にいるように」
 昨夜フランソワが言った言葉が、電光のようにひらめいた。 君には言えない。 告白なんかできない。 君が、まぶしすぎるから。
 エレは息を吸った。 夫を返せ! と叫びたかった。 だが、おそらく自分に道ならぬ思いを抱いている国王を刺激して、取り返しのつかない事態になるのが怖かった。 ふくれた顔で一礼して、エレは静かに部屋を出た。



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