目次 表紙

line

黄金の日輪を越えて

line
第46章  脱出




「また泣いてるの?」
 少々うんざりした口調で、エレは乳母のクロを振り返った。 クロは負けずにエレをねめつけた。
「私のせいじゃございません」
「じゃ、私が悪いの?」
 エレは憤然とした。
「だいたい、フランソワと私の子で、こんなにめそめそしてるはずがないのよ。 取り替えっ子じゃないでしょうね」
 床に座り込んだ男の子、シャルル・ルイの泣き声が、一段と高くなった。 金褐色の髪が揺れる。 顔は子猫のようにかわいいのだが、泣き出すといつまでもぐずるので、エレはお尻を引っぱたいてやりたくなった。
 目の端で、エレは隣の部屋をうかがった。 昨日到着したタンタンとアルマンがいる部屋だ。 タンタンが木切れを彫って兵隊の人形を器用に作ってやると、アルマンはそれに、ボボ大佐、レレ将軍と名前を付けて、遊んでいた。
 二人はシャルル・ルイも仲間に入れようとしたのだが、シャルルは人見知りで、遠くから眺めているだけだった。 どうやら、大好きなタンタンをアルマンに取られたような気がしているらしく、指をくわえていじいじしている。 まったくコイツは!・・・エレは魅力的な口元を、ぎゅっと尖らせた。
 エレが不機嫌なのは、マルゴが来なかったせいだった。 友だちは男女取り混ぜて星の数ほどいるが、親友と言えるのはマルゴと、少し落ちるがフィリップだけだ。 話したいこと、相談したいことが山ほどあるのに、結局来てくれなかった幼なじみを、エレは恨みたい気持ちだった。
「手紙に書けることじゃないし、男の子に言えることでもないし」
 またタンタンの整った横顔をちらっと見て、エレは小さく溜め息をついた。

 フランソワがヴェネツィアに追放されるきっかけになった、あの夜の出来事で、エレは子供を身ごもった。 それが、今床にだらしなく座っている幼児、シャルル・ルイ、愛称シャルロなのだが、このシャルロときたら、まったくの根性なしで、エレの嘆きのたねだった。
 幸い、頭は悪くなかったので、エレはタンタンに教育係を頼んだ。 タンタンはよくやってくれている。 シャルロはまだ3歳だが、きちんとアルファベットが書けるし、読める。 Cを逆さに書くようなまねはしなかった。
「でもこの子はひよわすぎる。 勉強はタンタンにまかせるとしても、馬術や剣術はやっぱり父親に習わなきゃ」
 タンタンは優しすぎて、お馬がこわい、転ぶのが痛い、とシャルロが泣き喚くと、なかなか強制することができないのだった。
 エレがフランソワのもとにどうしても行きたいと思うには、もうひとつ、重大な理由があった。 2週間前、アドリア海から戻ってきた海軍大臣のデュボアが尋ねてきて、かの地でフランソワを訪問したときの様子を伝えてくれた。
 だが、いっそ話してくれないほうがいいような内容で、なんとフランソワは新天地で大いに羽を伸ばし、愛人を囲っているというのだった。
 これは我慢できなかった。 たまさかの浮気ならまだ許せる。 でも堂々と愛人に一軒家を持たせて通っているとなると…… いてもたってもいられなくなって、エレは断固決意した。 アルプスの向こうへ行ってやる。 国王が何と言おうと!

 どうせ正面から頼みに行っても許可が出るはずはないと、エレにはわかっていた。 だから側面攻撃に出た。 まず、気付かれないように宝石を売って資金を作った。 同時に、タンタンを先生にして剣術の稽古を始め、近くの森に入ってマスケット銃の撃ち方を練習した。
 国王も言っていたとおり、この当時、旅行するのは命がけだった。 特に若い女性には危険がいっぱいで、遠出するときに男装するのが当たり前の時代だった。
 エレは身なりだけでなく中身も男の子になろうと決めていた。 子供時代に戻ったようで、なんだか楽しかった。 だが、近ごろ流行りはじめた半ズボン姿で森を歩いていると、ふと横に鋤を抱えたジル少年が並んでいるような気がして、胸が冷たくなることがあった。
 かわいそうなジル。 頭脳明晰なのに不器用で、マルゴが何を求めているか気づかなかったジル。
「笑いかければよかったんだ。 ただひたすらやさしくして、安心させればそれだけで。 マルゴは出世なんか望んでいなかった。 ジロンの両親みたいに、仲よく暮らしたかったんだ」

 両親を思うと涙が止まらなくなる。 ポワトウの乱が鎮圧された後、エレは真っ先に使いを送って2人の安否を確かめさせた。 返ってきたのは悲しい知らせだった。
 両親の城は焼け落ち、廃墟になっていたという。 そして2人は行方知れずだった。 死んだとはきまっていないんだから、とエレは幾度も自分に言い聞かせた。
 だが、望みが薄いことは充分わかっていた。 ヴィクトールもイヴォンヌも若いとはいえない。 荒れ狂う兵士たちの手から無事逃れられたとは、とても思えなかった。 あの要領いいフィリップでさえ捕虜にされて行方知れずになってしまったのだから。

 2ヶ月間、エレは慎重に準備した。 それから突如、実行に移した。 自宅で華やかなパーティーを催し、夫がいないほうがせいせいすると皆に言いふらした直後、忠実な従者2人とタンタン、それに子供たちだけを連れて、闇に紛れてパリを出奔した。
 馬車で大荷物を抱えて行けば、すぐ発見されてしまうだろう。 しかし6人は馬で行った。 エレが並みのお嬢様でなかったことが、こんなときに役立った。 彼女は従者がのびてしまっても平気で馬を御し続けた。
 身軽なおかげで、3日でマルセイユの港に着いた。 そこで、前もって話をつけておいた民間の交易船に乗り、たっぷり袖の下を使って、まんまとその船を予定より一日早く港から出航させてしまった。
 軽い帆船は、滑らかに地中海を進んだ。 海面は静かで、大きな船の姿は見えない。 漁船がちらほらあるだけなので、エレはほっとした。 

 ヴェネチアに到着したのは2日後だった。 ここで半分ほど荷物を下ろし、また積み込む。 一行はようやくきゅうくつな船を離れ、美しいサンマルコ広場に上陸した。
 交易地として栄える港町は、華やかだった。 石畳の道をひっきりなしに馬車が行き交う。 フランスよりもずっと陽気で荒っぽく、車輪の音がしたらすぐ脇によけないと、はね飛ばされそうだった。脇に刺した剣をカチャカチャ言わせながら、エレは活発に歩いた。
「フランソワはたしか、アカデミア橋の近くに住んでいるの」
「それなら西の方角ですね」
 地図を見ながら、タンタンが応じた。 彼はここ数ヶ月でまた背が伸び、エレと共に剣術の稽古に励んだおかげで筋肉が一段とついて、立派な男ぶりになっていた。
 彼は地図を持たないほうの手でシャルロの手をしっかり握っていた。 足が疲れてきたのか、シャルロは半泣きになっている。 それとは対照的に、兄の横を確かな足取りで歩くアルマンは、しっかりと口を引き結んで、自分のペースを守っていた。

 川に沿って歩くこと十五分、ようやく石造りの高い建物の中に、それらしい家が見えてきた。 エレはふっと息をつくと、馬に乗ったまま入れるように三メートル近くの高さがある大扉に近づき、ノッカーを持って、思い切り叩いた。 ゴンゴンと、腹に響く音がした。
 四角く切った覗き窓から、黒い眼が見えた。 その眼の持ち主は、えらく無愛想なイタリア語で尋ねた。
『誰だ』
 すぐにタンタンがなめらかに答えた。
『公爵の奥方様だ。 さっさと開けろ』
 眼は引っ込み、引きずるような足音が遠ざかっていった。
 5分ぐらいして、今度は急ぎ足が近づいてきた。 ドアの片側だけを開いて、なんだか怯えた顔を突き出したのは、フランソワの腹心、デュパンだった。
「奥方様……」
 いかにもあきれたというように、デュパンが溜め息をもらしたので、エレはかっとなった。
「なによ。 妻が夫を訪ねたら罪になるわけ?」
「国王の許可を得ていらしたんですか?」
「そんなもの永久に出ないことぐらい、よく知ってるくせに」
 確かにデュパンにもわかっていた。 もう1つ溜め息を噛み殺すと、デュパンはしぶしぶドアを大きく開いて、大人3人、少年1人、それに子供2人の奇妙な一団を中に通した。
 観念すると、デュパンは仕事が速い。 すぐに二階に部屋が用意された。 すごいことに、この家には中年の洗濯係ひとりしか女性はいないという。 料理番、従者、すべて男ばかりなのだった。
「女は愛人宅だけでいいんでしょう」
 小声で罵りながら、エレはさっそくデュパンに命じて、小間使いを探してもらうことにした。
 デュパンがいるということは、フランソワも在宅していることになる。 しかし、夕食の席に彼の姿はなかった。 ついでにアンリもいないので、エレはあきれ返った。 
「あのバ……私の夫は、十三にしかならない子供を愛人の家に置き去りにしてるの?」
 あまりにもあけすけな言い方に、デュパンは頭がくらっとなった。
「いえ、あの……アンリ様はゴルドーニ夫人と気が合うご様子で」
 ゴルドーニ夫人…… エレは一回で恋敵の名前を覚えてしまった。 しかし、わざと言った。
「そのなんとか夫人は人妻?」
「いえ」
 やりきれないという口調で、デュパンの声は小さくなった。
「未亡人です。 少なくとも自分ではそうだと」
「ふうん」
 エレは鼻であしらったが、内心穏やかではなかった。 そのとき、デュパンが驚くべき発言をした。
「わたしは奥方の方が上だと思うんですが」
 遅い夕食を取っていた全員の手が止まった。

 急に来たので、足りないものだらけだった。 翌日さっそく小間使い選びをして三人ほど採用したが、フランス語を満足に話せるのは一人しかいない。 エレは仕方なく、そのジーナという娘を通訳兼案内役にして、タンタンと共に買い物に出かけた。

 まだ十五歳だというのに、タンタンはとても頼もしかった。 相当自由にイタリア語をあやつり、布地、香料、顔につける米粉などをどんどん値切っていく。 エレはすっかり感心して眺めていた。
 タンタンが本屋に寄っていきたがったので、その間、エレはガラス細工の店に見とれた。 フランスではまだ出せない微妙な色使いで、不純物が少ないとみえて肌が薄い。 
「あんなグラスでブランデーを飲んだら、飲み干す前に壊れてしまわないかな」
 振り返って横の店にいるタンタンに訊くと、彼は笑った。
「薄いけど強いそうですよ。 伯爵が言ってました」
「そうか。 彼はローマに来てたんだね」
 エレの額が曇った。 何かを振り切るように首を動かすと、エレはつぶやいた。
「いくつか買っていくか」
 返事はなかった。 振り向くと、タンタンが本を一冊手にぶら下げたまま、硬直して立ちすくんでいた。 エレはそっと尋ねた。
「タンタン」
 ゆっくりと首をめぐらせて、タンタンはエレを見た。 しかしその目は、まったく光沢を失っていた。 地下牢の穴に落ちた人の目のようだ。 エレは何かぞっとするものを感じて、思わずタンタンに近寄り、体を揺すぶった。
「どうしたの!」
「はい」
 タンタンはうめくように言った。
「何でもありません。 誓って何でも……」



表紙 目次前頁次頁
背景:Kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved