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黄金の日輪を越えて

第48章 夢の続き
夢は、そのとき起きたことと同時進行することがあるという。 たとえば寝返りをして足を打ったとき、夢の中で空から落ちて足を折ったり、食べ物のにおいがすると晩餐会が夢に登場したりする。
その晩のマルゴは、夢の中でパリに戻っていた。 ジュールの古びた屋敷で、庭を巡る塀に近づき、ゆるんだ石を探っていた。 男の手が出て、手伝い始めた。 浅黒い、器用な手。 それはタンタンのものだった。
やがて石がはがれ落ちると、中から皮の包みが出てきた。 そして、口を結ぶ紐をといたとたん、にぶい光をはなつダイヤが手にあふれ出し、持ちきれないで地面にこぼれ落ちた。
あわてて身をかがめて拾おうとしたとき、脚が見えた。 ぴったりした靴下に包まれた、筋肉質の脚が。 マルゴはぼんやり薄目を開けた。 そして見た。 弱い月光を背景に、淡く浮かんだ男の影を。 飛び起きようとしたマルゴの肩を、骨ばった男の手が押さえた。 耳元にささやきが聞こえた。
「シッ。 僕だよ、母様」
肩を柔らかく掴んでいる手に、マルゴは思い切りしがみついた。 夢の続きとしか思えない。 タンタンが、すぐ横にいる。 元気で、いかにもうれしくてたまらないように微笑みかけている。
ぴったりと体を寄せてベッドに腰かけると、タンタンはせきこむように話し出した。
「よかった、今度こそ来てくれて! やり過ぎかなってちょっと心配だったんだけど、母様は頑固だから、これぐらいしないとフランスを離れてくれないと思って」
興奮した頭に、じわじわとタンタンの言葉が染み込んできた。 2分ほど経ってようやく、マルゴは誘拐が狂言だったことに気づき、怒って息子を突き飛ばした。
「タンタン! あなたいったい何を……」
「すみません、母様」
あわててタンタンはベッドに戻り、母の両手を握りしめた。
「どうしても来てほしかったんだ。 親子水入らずで暮らしたかった」
そばでリュシーがうなぎのように体をくねらせて目を開けた。 そして、母と、知らない男がしっかり手を握り合っているのを見て、定まらない声でつぶやいた。
「ん? だれ? 私のお父さん?」
タンタンは微笑みを浮かべた顔をリュシーに向け、片手を差し伸べた。
「お兄さんだよ。 よろしく、リュシー」
マルゴがエレに当てて出した手紙で、タンタンは義理の妹の存在をすでに知っていた。
上品なアクセントで話す兄を、リュシーは寝ぼけ眼で見上げた。 その目は徐々に大きくなり、やがてなぜか恥ずかしそうに、リュシーはマルゴの背中に顔を隠してしまった。
タンタンの手を握って振りながら、マルゴはほっとした気持ちを露わにして尋ねた。
「私たちは来たわ。 あなたの策略に引っかかってね。 だからあなたとアルマンもこの屋敷に戻ってくるんでしょう?」
ふっとタンタンの表情が厳しくなった。
「いや」
「タンタン!」
「シッ。お願いだから静かに。 アルマンと僕は新しい住処を見つけた。 だから母様とリュシーにも来てほしいんだ」
「そんな」
ただ驚いて、マルゴは目を見張った。
「いくらしっかりしていても、あなたはまだ十五歳。 アルマンは六歳にもならないのよ。 家を一軒構えるなんて、まだとても……」
「来て見て。 いいところだから」
「でも、エレには言っていかないと」
「だめ! そっと抜け出して、朝までに戻れば誰にも気付かれないよ。 気に入ったら、明日エレに話せばいいし、嫌ならずっとここにいてもいいし」
「でもね」
「行こう、母様。 一刻も早くアルマンに会いたいでしょう?」
不思議な話だった。 信じきれない気がしたが、何といってもかわいい息子の提案だ。 マルゴは浮かされたようにその気になった。
「それじゃ、すぐ着替えるわ」
「そのままでいいよ。 マントを用意してきた。 ほら、ちゃんと2人分。 今は寒くないから、上からこれを着れば」
考える間もなくせきたてられて、マルゴとリュシーがすっぽりマントを着ると、まるで大小の黒い土くれのようになった。
3つの影は、ベランダの階段を忍び足で下りた。 そして植え込み伝いに庭をジグザグに歩き、裏手の塀の、低くなっているところを乗り越えて外に出た。
マルゴは長男のタンタンに絶対的な信頼を置いていた。 だからこんな途方もない事態になってもためらわずに行動を共にした。 あんなに心配しているエレには本当に悪いが、やはり子供のほうが、今のマルゴには大切だった。
外にはニ頭の馬がつながれていた。 タンタンはまず母を一頭に乗せ、自分はリュシーを抱いたまま軽々と飛び乗った。 馬の蹄に何か履かせているらしく、ほとんど音をさせずに、ニ頭は坂道を静かに下っていった。
ヴェネツィアははるか昔から石をひとつひとつ置いて島をつなげた人工の町だ。 だからほとんど起伏がない。 ほぼ平らな道を、馬は急がずに進んだ。
もうコンデ公の館から四、五百メートルは離れたのではないかと思われる小路に来て、タンタンは馬を止めた。 そこはお屋敷町ではなく、おそらく商人区域だった。 くの字に張り出した鉄の枠に、雄鶏や本、それに酒瓶の模型がつるされて風に揺れている。 何を売っているか一目でわかるようにした看板の一種だった。
タンタンはまず自分が降りてリュシーとマルゴを抱き降ろし、リュシーを胸に抱いたまま、店と店の間のごく狭い通路に入った。
そのまま10メートルほど歩くと、小さな裏庭に出た。 とたんに二人の男に囲まれた。 一人は頭にターバンを載せ、もう一人はスカーフをきっちりと巻きつけている。 スカーフの方は闇のように肌が黒く、大きな目が真っ白に光っていた。
この大男がアルマンをさらう芝居をしたんだろうか、とマルゴは思った。 リュシーがおびえて体をすりよせてきたので、マルゴはタンタンの手から受け取って抱きしめた。
「大丈夫。 タンタンがついてるから」
実際、男たちは護衛として現れたらしかった。 三人をうながすと、彼らは後ろに気を配りながら歩き出した。 五人になった一行は、裏庭を横切り、右手にある建物へと向かった。
それはトルコ風の建物だった。 周りを回廊で囲んだ開放的な作りで、奥にもう一つ中庭がある。
裏門から入ったマルゴは、真っ白な柱の美しさに見とれた。 スペインでエレが住んでいた家に似ている。 こういう大理石の階段があった。 東屋のベンチに座って、吟遊詩人の格好をしたあの人と語り合った…… 淡い青春の思い出が胸をよぎり、目頭が熱くなった。
木陰のベンチから、誰かが立ち上がった。 長く裾を引く服を着ている。 頭には大きな帽子。 顔はすっかり陰になっていた。
マルゴは不意に立ち止まった。 足を地面に釘付けにされたように、まったく動けなくなった。 ベンチにいた男も、同じ状態だった。 やがて小刻みに彼の体が震え出すのを、マルゴは大きく見開いた眼で確かに見た。
息ができない。 胸が万力にかけられたように縮んだ。 見間違うはずのない、この姿……いくら服を替えようと、帽子を目深に引きおろそうと、マルゴにはわかった。 眼より心で。 全身で!
「ジュール……」
それは声ではなかった。口から押し出された熱い吐息だった。 その息で、呪縛が解けた。 マルゴはもう何も見えない状態でまっしぐらに走り、男の腕に飛び込んだ。
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