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黄金の日輪を越えて

第49章 癒えた傷
抱きついた体は彼のものだった。 背の高さも、細いがしっかりした筋肉質な手ごたえも。 だがマルゴはなかなか信じきれなくて、幾度も幾度も彼の背中を撫でまわし、実感を確かめた。、
「マルゴ……」
耳にやわらかい息が触れた。 息だけでなく別のものも。 それはこらえ切れずにあふれ出た、火のように熱い涙のしずくだった。
「大切な、大切なあなた」
マルゴは熱にうかされたようにつぶやき続けた。
「天国にいるみたい。 それとも本当の天国なの? きっと夢の中ね」
「ちがう」
ささやきがマルゴを包んだ。 限りなく夢見た、あの慈雨のようなささやきが。
「地下牢で、わたしは死を覚悟していた。 それが刑の執行前日に、不意に外へ連れ出され、粗末な服を与えられて、セーヌ上流の岸に置き去りにされた。
ほっとしたのだろう。 熱が出て、それから3日間のことは何も覚えていない。 目を覚ますとコロンビエが見えた。 忠実なコロンビエ。 わたしをずっと介抱してくれたんだ。
後で聞いたが、検察団の中心だったある司祭が暗殺されたんだそうだ。 それで追求がうやむやになり、国王がひそかに恩赦しやすくなったらしい。 危ないところだったとコロンビエが言っていた」
マルゴは震えながら目をつぶった。 たぶんジルはその結果を見越していたのだろう。 非情になりきれなかったジル。 これでいっそう良心の痛みが増すのを、マルゴは覚悟した。
マルゴをかかえこんだまま、ジュールは家に入ろうとした。 ところがうまく歩けない。 下を見ると、小さな子供がかじりついて邪魔しているのが見えた。
困って、ジュールはタンタンに助けを求めた。
「この子を離してくれ」
タンタンは笑いながら、まだ暴れているリュシーを抱きあげた。
「大丈夫だよ、リュシー。 母様はどこにも行かないよ」
ジュールは柔らかい表情でリュシーの眼を見た。
「これまでは母様だけだったからな。 どうだい、リュシー。 父様をほしくないか?」
とたんにリュシーの動きが止まった。 大きな目が、さらに丸く広がった。
「なってくれる?」
ジュールは微笑みながらうなずいた。
アルマンは子供部屋で寝ているということだった。 だから対面は明日にして、本当は眠いリュシーをタンタンに任せ、ジュールはマルゴを堅く引き寄せたまま、奥の間へ向かった。
最初の驚きがさめると、マルゴはだんだん悔しくなってきた。 生きているならなぜ知らせてくれなかったのだろう。 なぜ5年以上も姿を隠して、悲しみの中に置き去りにしたのだろう。
ゆったりとしたトルコ式の長椅子にマルゴを座らせると、ジュールは自らその謎を明かした。
「もう君を苦しめたくなかった。 短い年月だが君を妻に出来て、わたしは本当に幸せだった。 だからもう、縛りたくなかったんだ」
「誰が縛られてるですって?」
マルゴは涙で抗議した。
「私こそあなたの妻になれて幸せだったのに。 なんでそんな哀しいことを言うの? ねえ、なぜ?」
ジュールの喉が激しく動いた。 唇がふるえた。
「フィリップが……」
「また何か言ったの?」
マルゴは叫びそうになった。 ことジュールに関しては、フィリップはどうしようもない存在に変わってしまう。 他の人には親切なのに、ジュールにだけは敵意を燃やすだけ燃やして、容赦なく足を引っ張るのだった。
ジュールは顔をそむけて早口で言った。
「君は逃げたと言った。 現国王の婚礼の日、マザラン殿の推薦で王の侍従になれそうだから君に結婚を申込むとフィリップに告げたときだ。 彼は言った。 君はもういない、わたしにつきまとわれたくないから姿を消したと言ったんだ」
今この場にフィリップがいたら、顔を引っかかれたぐらいではすまなかっただろう。 マルゴは激怒した。
「あの嘘つき! 何てことを! 私が逃げたのは、国王からよ! カフェで偶然会って、抱きついてきたの。 王様って知らなくて、それで怪我させてしまったの。 だから反逆罪になると思って……」
あまりのことに、マルゴは泣き出してしまった。
妻を抱き寄せ、揺れている頭に頬を載せて、ジュールは眼を閉じた。
「よかった…… あの言葉を思い出すたびに、胸が焼けるように痛かった。 でも、嘘なら……」
「大嘘よ!」
マルゴはしゃくりあげた。
「フィリップに今度会ったら目玉をえぐり出してやる!」
ジュールが小さく笑った。
「少しコンデ夫人に似てきたね」
泣きながら、思わずマルゴも笑顔になった。
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