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黄金の日輪を越えて

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第50章  覚醒




 タンタンとアルマンだけでなく、マルゴにリュシーまで消えてしまったことを知ったエレは、予想に反して不意に落ち着きを取り戻した。 ひどく寂しそうではあるが、もうまったく泣かなくなった妻を、フランソワはじっと見守っていた。
 タンタン達がさらわれてから、フランソワはまったく愛人の家に行かなくなっていた。 それどころか預けていた長男のアンリまで呼び戻したので、怒ったアンリは事毎に父に逆らい、家の中は怒声が絶えない有様となった。
 アンリは十四歳になっていた。 本当の父であるレオンに次第に似てきて、なかなか整った顔立ちだが、いつもふくれっ面なのでかわいく見えない。 母のエレを他人と思っているらしく、自分からはまったく話しかけないし、エレがいろいろ聞こうとすると、ぶすっとしたままで部屋を出てしまうのだった。
 そんなアンリにも一つ見所があった。 初めて会った弟はかわいがるのだ。 じきにシャルロは兄になつき、ついて回るようになった。 それはそれで、エレの心配の種でもあったのだが。
 アンリは相変わらず勉強嫌いで、字を見ると頭が痛くなると公言していた。 おかげでシャルロまでが家庭教師を嫌がるようになり、窓から逃げ出して兄弟で戦争ごっこをしているので、エレは絶望的になった。 

 いつかは爆発する火種だった。 同じ屋根の下に住んでいても、フランソワとエレはほとんど話し合わず、すれ違うだけの通行人のような暮らしを続けていた。 
 そしてある日、ついに火薬樽まで導火線の火が届いた。 チャンバラごっこをしていたアンリがあやまってシャルロの腕に怪我を負わせたとき、エレの怒りが爆発した。
 上の息子を追いまわして鞭で打った後、エレは真っ赤な顔でフランソワの居室に乗り込んだ。 彼は髭をひねりながら、腹心のデュパンとチェスをしていた。 そこへスカートをたくしあげてどかどかと入っていったエレは、制御しきれない金切り声で叫んだ。
「どうしてくれるのよ、あんな乱暴者に育てて! ここの土は埋め立てで汚いのよ。 傷に毒でも入ったら」
「男は乱暴なぐらいでちょうどいいんだ。 闘って世の中を渡っていくんだから」
「「むやみに暴力をふるうのは敵を増やすだけよ! あの子に落ち着いて座ることを教えて! あなただってそうやってチェスをするときには何時間でも椅子に座っていられるじゃないの!」
 ゆっくりとポーンを下に置くと、フランソワは押さえた声で言った。
「何時間でも座っていられる男が好みか。 本に鼻を埋めて、次々と目新しい話題が話せて、その上美しくて如才のない男が」
「何の話よ。 はぐらかさないで!」
 いきなりフランソワが立ち上がって怒鳴った。
「わたしをどこまで馬鹿扱いすれば気が済むんだ! マルゴはどこへ行った! 彼女が喜んでついていく相手は、この世に一人、ロメーヌの奴しかいないはずだ! それをどうしてこのわたしが気付かないと思う!」
 エレはたじたじとなって柱に掴まった。
「待って」
 フランソワはもう噴火してしまっていた。
「君だな! 君が奴を助けた。 そうにちがいない。 王に頼んで死体とすりかえたんだな。 そして国外に逃がしたんだ!」
「待ってよ!」
「自分のものになるわけでもない男のためにそこまで…… 本当におめでたい女だよ、君は!」

 ニ秒近くの間、完全な沈黙が支配した。 それからエレが体を動かした。 彼女は、雷に打たれたような表情になっていた。
「まさかあなた……」
「奴が君の理想か。 たしかにな。 道化の仮面を取れば、あいつにはほとんど欠点はなかった。 たしかにお似合いだ。 大変な美男美女だ!」
 そのとき、エレの体が棒切れのように倒れた。 あまり急な倒れ方だったので、傍にいたデュパンでも受け止めきれず、エレは大きな音を立てて床に落ちた。

 数分後、エレはカウチの上で意識を取り戻した。 受け止められなかった責任を感じて顔をあおいだり水で額をしめしたりしていたデュパンはほっとして、膝をついた姿勢のまま振り返り、主人に報告した。
「奥方は気がつきました」
 部屋の中を熊のように歩き回っていたフランソワが立ち止まり、鋭い眼差しを妻に向けたそのとき、異変は始まった。
 大きく開いた眼をさまよわせて、エレが子供っぽい声で呼びかけた。
「ジャン!」
 フランソワの眼がすわった。 彼にじっと視線を据えたまま、エレは両手を握り合わせ、小さく叫んだ。
「ジャンよね。 髭が似合うわ。 男らしくなって…… もう奥さんがいるの?」
 デュパンがゆっくり振り向いて、フランソワの顔を穴があくほど見つめた。 エレはかすかに頭をふらふらさせながら言いつづけた。
「隠さなくたっていいのよ。 知ってるから。 森の外れまで追っかけていったの。 どこまでも追っていくつもりだった。 でも兵隊たちが剣を上げて、ダンジャン隊長万歳って……」
 部屋の中の人物は誰も動かなかった。 エレの頼りない声だけが響いた。
「会いたかった。 でもどうせ行っても相手にしてくれないだろうし……子供も生めなかったし……私って何をしてもだめ。 あなたが去っていったのは当然だったかも……」

 フランソワよりも先にデュパンが反応した。 彼は大きく息を吐いて立ち上がると、初めて怒りのまなざしを主人に向け、鋭く非難した。
「なぜ連れて行かなかったんです! なぜあのとき、迎えに来たと一言いえなかったんですか!」
 そして、たまりかねたように部屋を飛び出していった。

 頭を打ったことで意識が混濁したエレは、すぐにまた気を失ってしまった。 フランソワはしばらくカウチの横に立ちつくしていたが、やがてあちこちにぶつかりながら机に行き、引出しから拳銃を取り出して庭に出た。
 木立の横まで来て、彼はゆっくり銃に弾を入れ、こめかみにあてがった。 それを見たデュパンは全速力で走り、あやういところで銃を叩き落すことに成功した。
 肩で息をしながら、デュパンは訴えた。
「まだ間に合います。 奥方はあなたを追ってここまで来た。 今でも愛情が残っているからです」
 フランソワは木に寄りかかって眼を閉じた。
「愛なんて……そんなものがあるなんて、想像もしなかった。 おまえは知っているな。 父がわたしを何と呼んでいたか。 牛だ。 鈍くて勉強嫌いで、体ばかり大きい、馬鹿牛だと」
「父上は癇癪もちで、怒ると何でも言う方でした。 本気にしてはいけません!」
 体をくるっと返すと、フランソワは木にもたれて顔を押しつけた。
「彼女に利用されたと思ったんだ。 レオンに対するあてつけに使われただけだと、そう思って」
「奥方にそれを話せばいい」
 デュパンは声をはげました。
「スペインから危険を冒してジロンまで馬を飛ばしたことを、お言いなさい。 子供が生まれたらすぐに二人を引き取って、正式に結婚するつもりだったことを! 大雨の中で、何時間も窓の下に立っていたことを!」
「あの子さえ生まれていたら」
 フランソワは呻いた。
「あんな言葉を聞きさえしなかったら!」


 その夜遅く、エレは眼を開けた。 なんともいえず不快な頭痛がする。 冷たい水で頭を冷やそうとして半分ベッドから起き上がったところで、気付いた。
 幻のように淡くかすむ暗い部屋に、一段と大きな影が動かずにうずくまっている。 それが誰の姿か、エレはすぐに悟った。
 彼は、ひっきりなしに何か呟いていた。 信じられないが、祈りの言葉のように聞こえた。 切れ切れに内容が聞き取れる。 少しの間耳をすませていて、エレはあまりの驚きに頭痛を忘れた。
「どんな罰でもかまいません。 だが、わたしに直接お与えください。 神を呪い、人を苦しめた罪はわたしだけのものです。 妻をわたしの罪に巻き込まないでください」
 エレがしゃっくりのような音を立てたので、声はぴたりと止まった。
「神ですって?」
 エレはあえぎながら尋ねた。 フランソワは寂しい眼をゆっくりと彼女に移した。
「気分はどうだ?」
 静かな口調だった。 混乱したまま、エレはなんとか答えた。
「ちょっと頭が痛むけど……私、気絶したの?」
「そうだ」
 声は単調に響いた。 元気がないな、とエレは不審に思った。
「実は昨日、国王から命令が来た。 すぐフランスに戻るようにと」
「誰が!」
 憤然と、エレは言い返した。
「苦労して出てきたのに、簡単に帰るわけが……」
「わたしも一緒に帰国していいそうだ」
 とたんにエレは黙った。 それなら悪い話じゃない。
 フランソワは体を動かし、ぽつんと尋ねた。
「帰りたいか?」
 あまり考えもせずに、エレは答えた。
「あなたと一緒ならね」
 不意にフランソワが立ち上がったので、思わずエレは体を縮めた。 また怒鳴られるのだろうか。
 だが、返ってきたのは、ひび割れた声だった。
「なぜあんなことを言った!」
「え?」
 腹立ちまぎれの暴言なら数知れないエレは、心当たりがありすぎて、どれだかわからなかった。
「何のこと?」
「マドレーヌが亡くなったときのことだ。 君は言った。 なぜ泣くの、お祝いしましょうよ、と」
 なぜこの人が、そのことを……! 頭痛が倍になって戻ってきた。 吐き気がする。 エレは泳ぐように手を動かして、言葉を絞り出した。
「認めたくなかったの。 何ヶ月もあんなに楽しみにして、赤ちゃんの服を何枚も縫って、それなのに……だから、無事に生まれたって思いたかったの……」
 とたんにフランソワが倒れてきた。 あまり強く抱きしめられたので、エレは息が詰まった。
 フランソワは歯の音が合わない状態で、それでも必死にしゃべろうとしていた。
「窓の……君の窓の下に……いたんだ……子供が生まれたら、子供さえ生まれたら、すぐに飛び込んで言おうとしていた……迎えに……来たと」
 エレはしばらくじっとしていた。 まるで蝋人形のように。 それから息を吹き返した。 力いっぱい夫の首を抱き寄せ、顔中にキスの雨を降らせた。



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