オレンジ色の太陽が大伽藍の上にかかる頃、サンマルコ広場の前にがやがやと人が集まりはじめ、やがて波のように揺れながら水面を見つめ出した。
やがてその視線の先にあるものが近づいてきて、だれの目にもはっきりと映るようになってきた。 それは4隻のゴンドラで、若者たちが赤い顔で必死に漕いで競争していた。
特に目立つのは先頭の、黒と黄色に塗った船だった。 そのへさきにはひとりの若者が足を踏みしめて立ち、うまくバランスを取りながら、こぎ手を激励していた。
「そうだ、パオロ、右に少し曲げろ。 ようし、今度は左に手の幅ほどだ。 そうそう」
指図するごとに首があちこちを向く。 そのたびに波打つ金髪が揺れて、見物している若い娘たちから溜め息が漏れた。
カタリーナという油問屋の娘が友達にささやいた。
「年々きれいになっていくわね、アルマンドは」
「天使ガブリエーレなんて言われてるのよ。 見かけだけは」
「ほんとに遊んでばっかりよね。 きのうは蹄鉄投げで勝ったとかいって、肩車されてはしゃいでたわ」
「お子様なのよね」
「でももう18でしょう? そろそろ家業を継がないと」
「あの子に陶器の目利きなんてできると思う? あっという間にだまされて借金だらけになりそう」
「お父さんと顔は似てても中身は大違いよね」
橋の上で好き放題言われているとも知らず、金髪のアルマンドはパオロを叱咤激励して見事ゴンドラレースに勝利し、意気揚揚と岸に上がってきた。 2隻目、3隻目と残念そうに後に続き、4隻目に乗っていた黒髪の若者はとうとう上陸せずに、向きを変えて右の運河に入っていってしまった。
さっと虹のように光る髪をかきあげて、アルマンドは舌打ちした。
「チェーザレのやつ、賭け金を払わずに行っちまったぞ」
「あいつはもともとケチなんだよ。 大金持ちのくせしてな」
「もう仲間に入れるな、あんなやつ」
血気盛んな若者たちは互いにうなずきあった。
パオロと呼ばれた栗色の髪の青年がアルマンドに近づいた。 彼と肩を組みながら、アルマンドは陽気に声を上げた。
「さあ、僕たちの勝ちだ。 払った,払った!」
「しょうがないなあ、たいていアルマンドが勝っちゃうんだから」
そう言いながらも、青年たちは意外に素直に金袋を出した。
その理由はすぐにわかった。 金貨を受け取ったとたん、アルマンドは橋の手すりに飛び乗り、大声で叫んだ。
「さあ、みんなでエットーレの店に繰り込もう! 酒にうずら肉にオレンジ、食べ放題、飲み放題だぞ!」
たちまち若者たちが群がり、ゴンドラ仲間は8人のはずだったのに、どう見ても20人以上の人数になってしまった。 アルマンドはまるで気にせず、このタカリ集団を引き連れて、小路を曲がっていった。
カタリーナはあきれて首を振ったが、一言付け加えた。
「でもあの子がいるから、ここは楽しいのかもね」
アルマンド・レジオーニはサンマルコ広場の華だった。 15の時にはもう道を歩くと人々が振り返るほどの美しさで、窓から花を投げられたり、そっとボンボンを手渡されたりした。 だが彼の横を歩くのは常に男友達だけで、愛想はいいものの、アルマンドの心を射止めた娘は、まだ一人もいなかった。
だからまだ、誰にでもチャンスはあるわけだった。 彼目当てに着飾る女の子は後を絶たず、ドレスの仕立て代が値上がりしたと親たちがぼやくほどになっていた。
美男で、金持ちの跡取り息子――条件面でも最高クラスだ。 彼の父、ジュリアーノ・レジオーニはフランス語、ギリシャ語、トルコ語の3ヶ国語に堪能で、東洋から質の高い陶磁器を輸入し、ヴェネツィアの貴族,豪族に売り込んで多額の利益を上げていた。
この商売には鑑定眼が必要だ。 レジオーニ氏は年の半分以上海外に出かけて自分の目で品物を確かめ、買値を競って船に積んだ。 彼のつける値段は安すぎず、公正なので、取引相手に信頼され、いったん商売が成立すると、長く続いた。 しかも、掘り出し物があるときは耳打ちしてもらえ、思わぬ高級品を手に入れることができて、他国の王侯までが店のお得意になっていた。
レジオーニ氏か留守の間、店を切り盛りするのは妻のマルゲリータ夫人だ。 そのセンスのよさは有名で、青磁の壷にさりげなくマドリッドの黒レースをあしらったり、李朝の白い器にピンクの薔薇を優雅に差したりして、見に訪れた客の視線を奪い、予定になかった品まで買わせてしまうのだった。
静かで控えめだが実力は凄いと噂されるこの夫妻の、唯一の弱点、それがアルマンドだった。 油屋の娘が言っていたとおり、アルマンドは遊び回った。 いつ見てもひたすら遊んでいるという印象で、いくら享楽好きなヴェネツィア市民でも、眉をしかめる人が多かった。
カタリーナたちは白いバルコニーに移って、干したスモモをつまみながら噂を続けていた。
「アルマンドよりお兄さんの方に店を継がせればいいのに」
「アウグスト? 彼も格好いいわよね」
「こんなに背が高くて、よく日に焼けてて」
「あれは地黒」
「どっちだっていいわよ。 とにかくすごく男らしい」
「でもたしか彼は……」
同じ日の夕刻、広場に赤い残照が長く伸びるころ、紺色のマントをなびかせて、一人の男がボートから上がってきた。 彫刻家が愛情を込めて念入りに配置を決めたような、バランスのとれた顔立ちで、黒い瞳が柔らかい光を放っている。 派手ではないが、いつまでも見つめていたくなる顔だった。
彼が大股で広場の中ほどに差しかかったとき、
数人の言い争う声がして、いきなり斜め前の建物の扉が開き、中から2人の男女が飛び出してきた。
一人は男、それも相当酔った男で、手にはウサギのように首を引っつかんで小犬をぶら下げていた。 後から追ってきたのは若い女だった。 必死に手を伸ばして小犬を抱き取ろうとしているが、男は返さない。 上ずったドラ声と泣きそうな女の声が交差した。
「返して! トントンは人を噛んだりしないんだから!」
トントン? マントの男は妙な表情になった。
酔っ払いは下品な笑い声を上げた。
「噛んだ! 俺のズボンにぶらさがりやがったんだ。 こんなクソ犬、こうしてやる!」
その罵声と同時に、男は腕を大きく振って小犬を投げ飛ばした。 女は悲鳴を上げて目を覆った。 トントンが石畳に落ちてくる鈍い音を聞くまいとして。
だが、そんな音はしなかった。 大きな男が素早く落下地点に飛び、長い手を伸ばして小犬を受け止めた。
投げた反動でふらついていた酔っ払いは、目を細めて大男をにらんだ。
「てめえ、余計なことするんじゃねえよ」
大男は顎を上げた。 そして、空いているほうの手でマントを少しずらし、腰に下げている大きなサーベルを見せた。
とたんに酔っ払いはくるりと向きを変え、千鳥足で遠ざかっていった。 大男は手を下ろし、若い女に近づいて、無言で小犬を差し出した。
涙にぬれたままの顔で、彼女は男を見上げた。 男の目が思わず大きく開いた。 可憐、という言葉がこれほど似合う顔はないと思えるほど、その女は愛らしかったのだ。
彼女はハート型の顔をしていた。 流行にそって髪を結いあげ、巻き毛を額に散らしている。 目は仔鹿のように大きく、薄闇で色は定かにわからないが、夕星のようにきらめいていた。
引ったくるように小犬を受け取ると、娘は夢中で頬ずりした。
「よかった! よかったね、トントン」
男の頬が可笑しそうに引きつれた。 それでも無言でその場を離れようとすると、いきなりマントをつかまれた。
「待って!」
娘は目をくりくり動かしながら、小声で言った。
「ほんとに助かった。 ありがとう。 この子は、私の御主人が大切にしてる犬なの。 死なせちゃったら大変だった」
男はうなずき、マントをそっと引いた。 だが娘はてこでも離さなかった。
「お礼に一晩付き合ってあげる」
男の動きが止まった。 初めて声が出た。 深く響く、バスの声が。
「何だって?」
女はいたずらっぽく男の腕にぶらさかった。
「あなた、兵隊さんでしょ? 外地から戻ってきたばかりなんだ。 私は小間使いで、そういった種類の女じゃないけど、その分安心だから、ね?」
男はしばらく娘の顔を見つめていた。
それから更に低い声で尋ねた。
「どこへ行く?」
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