女は兵隊を、小路の外れにある宿屋に連れていった。 黒い髪を無雑作に紐で縛った宿の主人は、女と顔見知りらしく、愛想よくうなずいてみせた。 どうも彼女が男を連れ込むのは初めてではなさそうだった。
あいにくと、兵隊の方も主人と顔見知りだった。 大きな帽子を脱いで脇にかかえたとたん、主人が眼を見張って大声を立てた。
「グスト!」
しかたなく、アウグストは昔馴染みに近寄って、腕をからませて親しみのこもった挨拶を交わした。
「やあ、リッツォ」
「知り合い?」
眼を大きく見開いて、小間使いが尋ねた。 リッツォと呼ばれた主人は首だけでは足りず、全身を揺すぶってうなずいてみせた。
「グストはすごい奴なんだよ。 細く見えるが5年前の樽持ち上げ競争で一番になってるんだ。 腕相撲もそりゃあ強い」
「よせよ。 それより自慢のポルトを一杯よこせ。 喉がかわいた」
「ほいよ」
すぐに樽に取り付けた口を開いて、リッツォはなみなみと友のために盃を満たした。 それをグストは一息で飲み干した。
ふところから硬貨を取り出そうとすると、リッツォが手を振った。
「いいんだよ、俺のおごり。 久しぶりで帰ったんだろう? 何ヶ月ぶりだ?」
グストは少し考えた。
「2年と8ヶ月」
「おいおい」
リッツォの顔がまじめになった。
「おふくろさんに心配かけるなよ。 だいたい、あんな立派な両親がそろっていて、なんで兵隊なんかになった!」
「広い世界が見たかったんだ」
「たしかに新大陸はだだっ広いそうだが、兵隊が見るのは死人と酒場女だろう。 まっとうな商売につけよ。 腕はあるのに」
「帰って早々、お説教か?」
面白くなさそうに、盃をテーブルに置くと、アウグストはマントをひるがえして女のそばに行き、手を握った。
「行こう」
女は陽気にうなずき、小犬を抱えなおした。
2人が階段を上っていくのを見送りながら、リッツォは口の中で呟いた。
「珍しいことがあるもんだ。 グストが、女遊びをねえ」
二階の部屋に入り、扉を閉め切るとすぐに、女は背伸びしてグストの引き締まった唇にキスした。 グストも彼女の体に手を回して軽く抱きあげ、キスに応えた。
顔が離れると、女は身をかがめて小犬を床に降ろし、つやっぽい流し目をしながら襟の大きく開いたブラウスを脱ぎ始めた。 グストもマントを取り、サーベルを外して、両方とも壁にかけた。
ウェストのボタンを探しながら、女が尋ねた。
「その軍服、フランスのよね」
「そうだよ」
とグストは答えた。
「なぜヴェネツィア人がフランスの軍隊に?」
「フランス語ができるから」
女は身をよじって笑い出した。
「そんな理由なら私だって軍隊に入れる!」
「商売をやらずに出世しようと思ったら、坊さんになるか軍人になるかしかない。 坊主は嫌いだから、残った道はこれだけだった」
「どうしてヴェネツィアの軍じゃないの?」
「だからそれは」
途中で声が揃った。
「広い世界を見たかったから!」
2人はくすくす笑い出した。
女は明かりをつけたままでいいと言ったが、グストは礼儀正しく吹き消した。 そしてやさしく彼女を抱いた。 女の肌はきめが細かくなめらかで、炭火のように熱かった。
それから2人は寝てしまった。 グストは長旅で疲れていたし、女は……こちらの事情はよくわからない。 ともかくグストの腕を枕に、ぐっすりと寝込んでしまった。
太陽の外輪が地平線の縁まで来たが、淡い光がまだ星の残照を消せずにいる頃、グストはふっと目を覚ました。 何かが鼻の頭を熱い舌でなめたのだ。
それは、トントンと呼ばれていた小犬だった。 名前が自分の幼名に似ているので、グストは小犬に親しみを感じ、丸い頭をぐいっと撫でてやった。 犬は喜んでハアハアとあえいだ。
それからグストは片肘をついて斜めに身を起こし、眠っている女を眺めた。 優美にカールした睫毛、わずかに先の反ったかわいい鼻、なだらかな線を描いて顎に続く頬。 どれをとっても少しずつ違うのだが、まとめて見るとよく似ていた。 グストがタンタンだったころ、仄かな憧れを抱いた、あのひとに。
じっと見つめていると、女はゆっくり眼を開いた。 そして、グストと視線が合うと、微笑を浮かべた。
「グスト……」
「覚えていたね、わたしの名前を」
顔を寄せて耳と首筋に唇を這わせながら、グストは尋ねた。
「こっちの名前は知っているのに、名乗らないのは不公平だ。 君の名前は?」
女はすぐに答えた。
「ジーナ」
ジーナ、と、グストは息で繰り返した。 そして、不意に両腕で抱き取ると尋ねた。
「また会ってくれるか?」
ジーナと名乗った女は、じわじわと上ってくる太陽の影を映した金茶色の眼で、グストを探るように見た。
「会いたいの?」
「ああ」
ジーナは口をつぐんで少し考えていたが、ようやく言った。
「それじゃ、あさっての夜、ここで」
グストの整った顔が、ぱっと明るくなった。
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