弱々しい冬の陽射しでも、二日酔いの眼にはまぶしい。 茶色の上着の前をかき合わせて、アルマンドはこっそり大理石の階段を上がり、中庭から彫刻伝いに自分の部屋へもぐりこもうとしていた。
だが、階段の踊り場から見ていた鷹のような眼差しが、それを見逃すはずはない。 すぐに厳しい声が朝の空気を貫いた。
「アルマン!」
今でも家族の中ではフランス語を使っている。 その方が楽だし、自然だからだ。 しかし、もうヴェネツィア暮らしの方がずっと長くなったアルマンドは、ときどき反抗してイタリア語を使い続けた。
一瞬すくんだ首を伸ばし直し、アルマンドはいくらか虚勢を張って振り向いた。 すると階段を優雅な足取りで下りてくる紳士が見えた。
かつてのジュリアン・ダートルミー、現在は陶器輸入販売業者ジュリアーノ・レジオーニとなった彼は、金髪こそ色あせて銀色に変わりつつあったが、顔立ちは変化せず、むしろ月日の洗礼を経て落ち着きと気品を感じさせる容貌になっていた。
だが、このときのジュールは腹を立てていたので、眉間に皺がぴっと入って、迫力があった。
「朝帰りか! はっきり言うぞ、このバカ息子め。 もう一度こんな真似をしたら……」
「やめて! お願い」
かわいい声を上げながら走ってきて、父親の腕にまとわりついたのは、赤褐色の見事な髪を三つ編みにしてぐるりと頭に巻きつけた、16,7の少女だった。 リュシー、この土地風に言うとルチアは、若木のように背が伸び、悩みの種だった赤毛が濃くなってきて、最近では降るように縁談が舞いこんでいた。
「グスト兄さんが出てっちゃって、この上アルマンドまでいなくなっちゃったら、誰が私をカルナヴァル(=カーニバル)に連れてってくれるの?」
「いくらでもいるだろう。 ほら、ジャンカルロとか、マルチェッロとか」
アルマンドが面白がって、ルチアの取り巻きのうち特に人気の無い二人の名をあげたので、
彼女はわざとふくれたふりをして、兄を叩きに行った。
「ばかっ」
「本当にばかだ」
父親は憮然としてつぶやいた。
「何不自由ない暮らしをさせてやっているのに。 不満がないのが不満なのか?」
「僕は若いんだ」
アルマンドはしゃあしゃあと言った。
「やりたいことが一杯で、目移りするほどなんだ」
「寄り道ばかりする渡り鳥は海に落ちて死ぬんだぞ」
「僕は死なないさ!」
無邪気な青春の無鉄砲さで、アルマンドは言い切った。
「僕には守護天使がついてる、背中に羽根が見えるって、占いのジェンナーレ刀自が言ってたよ」
ジュールは思わず顔に手を当てた。
「それを信じてるのか、おまえ?」
「いけない?」
天に二物も三物も与えられた幸運な青年は、明るく叫んだ。
「こうも言ってたよ。 僕は一番欲しい物を手に入れられるって」
もはやこんな楽天家に付き合うのに耐えられなくなった父親は、押さえに押さえた不気味な声で言った。
「今週は小遣いは抜きだ。 金箱から取ったりしたら、その場で追い出す。 わかったな」
「そんな!」
兄と妹が情けない声をそろえた。 明後日からいよいよカルナヴァルなのだ。 それなのに、金がないなんて!
ジュールは皮肉な笑いを浮かべて言い残した。
「自分で稼げ。 ただ、ネズミのレースはやめておけよ。 ペストが広まったら責任をとらされるぞ」
父が出かけた後、 アルマンドはふくれてゴブラン張りの椅子にどしんと腰をおろした。
「チェッ、ケチ親父」
家族の中で誰よりも父親っ子のルチアが急いで言った。
「そんなこと言っちゃだめ。 お母さんに聞かれたら大変」
「そうなんだよな」
アルマンドがとたんに泣きを入れた。
「母さんは親父にべったり。 親父はもっとべたべたで、うちにいるときはたいてい母さんと一緒。 4日前に帰ってきたときの態度を見たか? 2人で手取り合ってじっと顔見つめあって。 自分の親でも照れちゃうよ」
「航海で死ぬ人がたくさんいるからよ」
2つ年下でもルチアはだんだん母親に話し方が似てきて、まるでお姉さんのような口をきいた。
「母さんはいつも船の無事を祈ってるの。 本当はもう航海に出てほしくないのよ。 でも父さんは財産を残したいの。 私たちのために少しでも多く」
「おまえとエレーナとクラウディアのためだろ? 持参金たっぷりつけたいんだ。 さもないと,貰い手が」
「つくもん!」
最近自信を持ってきたルチアは胸をそらした。
「昨日また申込まれちゃった。 7人目よ! それにエレーナはアルマンドと同じで父さん似だし、クラウディアは……」
「そう、あいつは誰に似たんだ?」
不思議なことに、クラウディアは両親のどちらとも違い、茶色の髪と灰色の眼をしていた。 しかし顔は父親そっくりで、まだ10歳なのに当代一流の画家エリジェーロからモデルになってくれと申込まれたほど美しかった。
そこへ、両手をそれぞれ娘たちに引かれたマルゲリータ夫人、つまりマルゴが部屋から出てきた。 エレーナとクラウディアは年子なので、何かにつけて競争心が強く、特に母の取り合いはすごかった。 エレーナが母の誕生日に自ら刺繍したハンカチを贈ると、クラウディアは負けずに器用に絵付けした記念皿を贈るといった具合に、ことごとく張り合う。 だがぞれはあくまでも家の中だけで、一歩外に出ると双子と言われるぐらい庇いあうのが可笑しかった。
二人の娘とにぎやかに笑いさざめきながら廊下を歩いてきたマルゴは、椅子にだらんと伸びて、半分寝かかっている息子を見ると、眉をひそめるというより、心配そうな表情になった。
「アルマン」
くっつきそうな両の瞼をようやく引きはがして、アルマンドは海のような青い眼を覗かせた。
「あ……母さん」
「ちょっと来て」
あくびを噛みころして、アルマンドはつぶやいた。
「眠いんだ。 それに何か食べたいし。 昨夜から酒ばっかり飲んじゃって」
この勝手な言い分にも怒らずに、マルゴは静かに言った。
「カルラに言って何か作らせるわ。 できるまでちょっと話しましょう」
アルマンドの一番苦手は、いざとなると強い父ではなく、いつも穏やかなこの母だった。 今も逆らうことができずに、そばに立つルチアにしかめ面をしてみせて、それでもおとなしく母の後をついていった。
奥の小部屋に入ると、マルゴはアルマンドにドアを閉めるように言い、窓際の長椅子に腰かけて手招きした。 アルマンドは首をかきながら母の横に座った。
息子の手を取って手のひらが上に向くように引っくり返しながら、マルゴはしみじみど言った。
「こんなに大きくなったのね。 しっかりした長い指」
アルマンドは目を伏せて無言だった。 視線で息子の顔をたどりながら、マルゴは続けた。
「タンタンは、つまりアウグストは、もうこの家に戻って来る気はないわ。 私にはわかるの」
さっと顔を上げて何か言いかけたアルマンドを制して、マルゴはきっぱりと言った。
「だから跡継ぎはあなた一人。 3人の妹たちのためにも、しっかりしてもらわなければ困るの。 遊んでもいいわ。 でもせめて夕方からにして。 午後は店に出て、仕事を覚えてちょうだい」
すっと母の手から抜け出すと、アルマンドは硬い声で言った。
「兄貴は帰ってくるさ。 きっと」
そして、速い足取りで部屋を出ていった。
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