マルゴが深い吐息を漏らしながら娘たちのところへ戻ろうとして廊下に出たとき、歓声とも溜め息ともつかない華やいだ声が入口付近から響いてきて、足が止まった。
やがて人声がなこやかに近づいてきた。 そしてマルゴの目に入ったのは……
「タンタン!」
もう久しく使わなかった幼名が、無意識に口をついて出た。 身の丈185センチはあろうかという大男に育ち、戦火をくぐってがっしりと筋肉がついた今でも、アウグストはマルゴにとっては相変わらず、素直でかわいいタンタンなのだった。
前かがみになって母親をぎゅっと抱きしめて、グストは顔一杯に笑みを浮かべながら懐から包みを取り出した。
「はい、母様」
急いで布をはいでみて、それがエレからの手紙だと知ると、マルゴは思わず胸に抱きしめてしまった。
ルチアが気をきかせて言った。
「母さん早く読みたいでしょう。 私たちがグストとお話してるから、ここでゆっくり読んでいて」
たちまちグストは3人の小美人に囲まれ、回り中から一斉に浴びせられる質問に早口で答えながら、庭に引っ張られていった。
懐かしい字を見ただけで目がうるんでくる。 タンタンが夜中に呼びに来たあの夜以来、風の便りでエレがフランソワと仲直りしたこと、今や宮廷で一番の『影の実力者』になっていることは知っていたが、直接に連絡を取ったことはなく、また取れるはずもなく、マルゴはエレを思い出すたびに胸が痛んでいた。
大急ぎで紙を広げると、相変わらずおおらかな字がところ狭しと並んでいた。
『なつかしい、薄情な幼なじみへ
昨日兵舎の横を馬車で通りかかったら、なんと兵站部の前にタンタンが立っていました。 見違えるように立派になりましたね。 さぞ多くの若い娘の胸を焦がしていることでしょう。
見たとたん馬車を降りて、捕まえました。 彼も懐かしんでくれましたが、なんだか逃げたそうにも見えました。 相変わらず私はお節介でけむたい存在のようです。
マルゴ、あなたがいなくて本当に寂しい。 別れてから10年以上経っているのに、ふっと横の空気に話しかけたりしてしまいます。 あなたがそばにいるような気が、いつもしているのです。 あなたはどうですか?
自由都市ヴェネツィアで愛する夫と一緒に、楽しい日々を送っているのでしょうね。 うらやましい!
タンタンによると、更にお嬢さんが2人授かったとか。 実はうちにもできたんですよ。 1人だけど。 相変わらず頼みもしないのにお産につきっきりだったフランソワが、女の子だとわかったとたんに何と言ったと思います?
私と声をそろえて、《名前はマルゴ!》と叫んでしまったんです。 だから末娘の名前はマルグリット。 マールと呼んでいます。 気のせいか、優しい性格があなたに似ているように思えます。
マールが生まれてから、うちは劇的に変わりました。 アンリとシャルロが取り合いするほど赤ん坊をかわいがってくれて、ずいぶんなごやかになりました。 アンリは相変わらずバカですが、砲術の勉強だけは熱心にやり、いい軍人になりつつあります。 シャルロの方は少しましで、字を書くのがうまいので王宮の文書関連の仕事につけそうです。
最後になってしまいましたが、すばらしいことがありました。 あの内乱の最中に死んでしまったと思っていたお母様が、無事だったんです! なんとフィリップが助け出してくれたとか。 彼でも役に立つことがあるんですね。
父様の方はだめだったそうです。 城を守ろうとして撃たれたとのこと。 即死だったのがせめてもの幸運でした。
フィリップはお母様をうちに預けた後、新大陸へ行ってしまいました。 探検家になるそうですが、あの派手好きなフィリップが原野で何をするのかほんと不思議です。 噂によるとあちらでは空が暗くなるほど蚊がわいてくるんですって。 絶対に行きたくないです。
消息がわかったのがうれしくて、書き散らしてしまいました。 国王はとっくにあなたの旦那様を許しているので、お忍びなら帰国しても大丈夫なぐらいですが、戻ってくる気はないでしょうね。 死ぬまでにどうしてもあなたにまた会いたいんだけど。
思えば2人とも大変な人生でしたね。 でもお互いなんとか生き延びてきました。 これからもしぶとく長生きしましょう。 ぜひ、ぜひ手紙を下さい。 タンタンが届けると約束してくれました。 だからお願い!
永久にあなたの友 エレ』
手紙を握りしめたまま、マルゴはしばらく目を閉じていた。 元気で、幸福そうな手紙。 それが何よりうれしかった。 夫妻が仲直りしたことが子供たちにもいい影響を及ぼしたのだろう。 タンタンの言う『ふくれっ面アンリ』と『泣き虫シャルロ』がどちらもいい若者になって、もうエレを悩ませていないらしいので、マルゴはほっとした。
――うちにもあなたから名前をもらったエレーナという娘がいるのよ。 まるで父親そっくりなの。 おたくのマールはどんな顔をしているのかしら。 もしかして、フランソワそっくりとか?――
想像すると微笑ましい。
思えばただの一度もエレとは喧嘩したことがない。 暗い生まれの切なさを胸に秘めて、2人は常に団結していた。 エレがいたから今の自分たちの幸せがあるのだということを、マルゴは決して忘れなかった。
私も会いたい。 会って一晩中話したい――また涙がにじんできたので、マルゴはハンカチを出して拭いた。
「やっぱり泣かせてしまった」
低くやさしい声がして、マルゴはあわててハンカチを隠し、笑顔で振り向いた。
「やっと帰ってきてくれたのね。 心配したのよ」
母のそばに腰をおろしながら、グストは言った。
「母様にはいつまでも子供だが、もう28、間もなく29になる大人なんだから」
よく見ると、耳の横に縦の傷が光っていた。 マルゴは眉をひそめてその傷跡を指でたどった。
「これは?」
「ああ」
こともなげに、グストは淡々と答えた。
「イギリス軍の銃弾がかすめた」
ぞっとして、マルゴは青ざめた。
「軍隊を辞めて戻ってくる気はない? ジュールもそれを望んでいるのよ」
「アルマンドがいるじゃないか」
艶のある深い瞳が母の眼を覗きこんだ。 そして、話題を変えようとして懐からもう1つ、包みを取り出した。
「はい、これはわたしから母様へ」
「まあ、なに?」
あけてみると、それは数本の見事な鳥の羽根だった。 光の当たり方で緑にも金色にも見える。 マルゴはすっかりうれしくなって、息子の引き締まった頬にキスした。
「これを帽子につけていったら、街じゅうのマダムにうらやましがられるよ」
「ほんとね。 どんな鳥がこの羽根で装っているのかしら」
「雉。それに白頭鷲。 南に行くともっときれいな鳥がいるらしいけど、わたしは北に配属されているから」
「やっぱり心配だわ」
「どこにいても、死ぬときは死ぬのさ」
さめた口調で、グストはつぶやいた。 こういう厭世的なことを言う子じゃなかったのに、とマルゴは突き放されたような気分を味わった。
グストが戻ったのを一番喜んだのは、マルゴを除けばもしかするとジュールかもしれない。 港で荷の積み下ろしを監督していたジュールは、夕方に帰ってきてグストを見たとたん、思わず早足になって歩み寄り、しっかりと抱擁を交わした。
「グスト! 無事に戻ったな!」
「また出かけるけどね。 久しぶりに家族の顔が見たくなったんだ。 ちょうどカルナヴァルが始まる時期だし」
ジュールの端正な顔に影が走った。
「まだ軍隊にいるつもりか?」
「ずっとね」
「頑固だなあ、お前は」
「半年前に大尉になった。 この分でいくと、再来年あたりには少佐になれそうだ」
「それはめでたいが、命あっての出世だ。 あちらの戦闘は最近激しいそうじゃないか。 敵は現地人を巻き込んで夜昼なしに襲ってくるんだろう?」
「なんとかくぐり抜けてるよ。 最近勘が鋭くなった」
「ぶっそうな話だな」
「だからしばらくここで骨休めするのさ」
グストは明るく笑った。
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