表紙

55  恋の始まり


 その晩、久しぶりに我が家でゆっくり休んだグストは、翌朝はもう早く起きて、ジュールと共に船荷の整理と帳簿付けに精を出した。
  仕分けが一段落すると、ジュールは息子の肩を叩いて言った。
「無理しなくてもいいんだ。 疲れを休めに戻ってきているんだから」
  袖についた詰め物の藁クズを払いながら、グストは首を振った。
「このぐらい当然だよ。 お父さんにどれだけ世話になったか考えれば」
  さっとジュールの額が曇った。
「そんな他人行儀な……」
「そうじゃない」
  真剣な口調で、グストは義父を遮った。
「一人で世の中に出て、痛感したんだ。 お父さんの教えがいかに正しかったか。 こんなに早く出世できたのは3ヶ国語が読み書きできたからだし、何より広い視野で現実を見ろという父さんの言葉が役に立ってる。 なんとか生き延びてこられたのはそのためだと思うよ」
  ジュールの白皙の顔が、喜びと照れでいくらか赤らんだ。
「おまえは師匠より優秀な弟子だ。 だから、少しでも恩に着ているなら戻ってこいよ。 マルゴや妹たちだってお前がいればどんなに……」
「お父さん」
  グストは改まって言った。
「悪いが自分の力でできるところまでやってみる。 許してほしいんだ」
  ジュールは難しい顔になって視線をそらした。

 その夜はカルナヴァルの前夜祭で、もう町は浮き立っていた。 大きな看板や花飾り、聖者の人形などが飾り付けられ、明日の正式な出番に備えている。 子供たちがはしゃぎながら、明日からの祭りに振り撒くコンフェティ(=紙玉。 紙ふぶきのようなもの)作りに夢中になっていた。
  夕暮れの街を、行き交う人々に混じって、グストが歩いていた。 眼が柔らかく輝き、口が期待にゆるんでいる。 今夜はあのかわいい娘と約束した『あさっての晩』だった。
  それでもリッツォの宿屋に入る前に、グストは窓から覗いてみた。 あんな約束はしたが、時のはずみで言っただけで、実際には来ていないかもしれない。 口がでまかせだったかも……
  それはグストの思い過ごしだった。 娘はもう宿に来ていて、カウンターに寄りかかってワインを飲みながら、リッツォと談笑していた。 それを見たグストの表情が、満月のように明るくなった。
  ドアを押しあけると、ジーナは急いで振り返った。 その顔もまたぱっと輝くのを見て、グストは深い満足感を覚えた。
「やあ」
「こんばんは」
  うれしくてたまらないようにジーナがグストに跳びついたとき、奥のテーブルから声がした。
「好みは大きな兵隊さんか。 チェッ、浮気女め!」
  グストの眼がきらりと光った。 だがジーナは彼の腕をぐいぐい押して階段に連れていった。
「あんなの構わないで。 やきもち焼いてるだけなんだから」
  今日は小犬抜きで、2人はしっかり手を握り合い、軽い足取りで上へ上っていった。

◆◇◆◇◆

 珍しくアルマンドは一人で歩いていた。 目立つ金色の髪を船員の被る布の帽子で隠し、眼には早くも祭り用のマスクをつけていた。
  こうでもしないと、アルマンドはなかなか一人になれないのだった。 別にうぬぼれではなく、自分がえらく派手な容姿をしていることを、アルマンドは自覚していた。 そして、いくらかうっとうしく思っていた。
  彼の目的地は、広場から少し離れた運河の岸だった。 父がいつになく厳しいことを言って、本当に小遣いをカットしてしまったので、明日から一週間以上続く、年に一度の祭りを楽しむために、金策をする必要に迫られていた。
  それでアルマンドが見つけた稼ぎ方はというと、ジュールに知られたらネズミのレース以上に叱りとばされそうなものだった。 つまり、娼婦の用心棒。 
  自由な町ヴェネツィアは、ヨーロッパ一の歓楽街でもあった。 当然、遊び女の数も多い。 その中で、アルマンドに友達が紹介したのは、有名な高級娼婦のエミリアだった。
  エミリアは美しいだけでなく、高い教養を持ち、人をそらさないことで有名だった。 だからアルマンドは彼女に会うのを楽しみにしていた。 王侯貴族用の高級なお相手となると、一般の男では遠くから見ることしかできない。 異様なほど身持ちの堅い両親を持つアルマンドは、娼婦と知り合うことなどありえず、したがって話ができるだけで光栄、という気分になっていた。
  運河の縁にたどり着くと、黒に銀色の筋を流したような水面に、ゴンドラが一隻ただよっているのが見えた。 あれだ! アルマンドは張り切って、棒についた手鉤で船を引き寄せると、鳥のように身軽に中へ飛び移った。
  冬なので、ゴンドラにはキャポネラと呼ばれる箱のようなキャビンが被せられていた。 その中に座っていた婦人が、アルマンドの重みでゴンドラがかしいだため横にすべり、小さな悲鳴をあげた。
  急いで、アルマンドは彼女の前にしゃがみこみ、優雅に詫びた。
「ごめんなさい、エミリアさん。 護衛をするように頼まれた者です。 おひとりですか?」
  顔に黒いヴェールをかけた影が、かすかにうなずいた。 アルマンドはきびきびと尋ねた。
「ここは人通りが少なくて、ちょっと物騒ですよ。 にぎやかなリアルト橋のほうへ行きませんか?」
  エミリアはやっと声を出した。 低く、ほとんど囁きに近いが、さすが傾城の美女とたたえられるだけあって、甘やかな響きを持っていた。
「いいえ、ここで人を待っているの」
「そうですか」
  すぐにアルマンドは納得した。 なるほど、逢引きは人目に立つところでやるものじゃない。
  5分ほど、アルマンドはおとなしく水面を見ていたが、何しろまだ18歳の若者だ。 じっとしているのが退屈でたまらなくなり、思い切ってエミリアに話しかけた。
「エミリアさんはどんな本を読みますか?」
  不意に訊かれて、彼女は戸惑ったらしく、あやふやな答えが返ってきた。
「ええと……ダンテとか、チョーサーとか……」
「チョーサー?」
  アルマンドは驚いた。 さすがだ、英語が読めるのか!」
「ローランの歌は?」
「ええ、好きよ」
「僕も。 この間はトリスタン伝説を読みました。 いろんな版があるらしいけど、僕が読んだのは特に悲しいやつで、トリスタンがボロボロになって床についていて、イズーが来るのを待っていて」
「ええ、船が白い帆なら来る、黒い帆なら来ないと」
「そうそう!」
  アルマンドはすっかり夢中になって身を乗り出した。
「僕ならあんな恋はしない。 叔父に恋人を渡すぐらいなら駆け落ちする!」
「イズーもそれを望んでいたんじゃないかしら」
と、静かなささやきが答えた。
「トリスタンは結局みんなを不幸にしたわ」
「恋物語って悲劇が多いですよね」
  アルマンドは不思議がった。
「みんな泣きたいのかな」
「哀れなフリードリヒみたいに幸せになる話もあるわ」
「身代わりに苦労してくれる娘を探して? あいつ、身勝手だ」
  エミリアは笑った。 可憐な笑い声だった。
「正義感が強いのね」
「好きな人を守りたい。 それだけです」
「その幸運な人はどなた?」
「いません、まだ」
「そう」
  ちょっと言葉が途切れた。 好きだな、この人、とアルマンドは思い、いくらかそばに寄ってみた。 彼女は避けなかった。
「この水はどこまで続いているんでしょうね」
  月の影が波にちぎられて幾層にも分かれている川面を、エミリアは首を伸ばすようにして眺めた。 アルマンドは静かに答えた。
「ずっとずっとどこまでも。 父が言っていましたが、地球は丸くて、まっすぐ進んでいくといつかもとの場所に戻るんだそうです」
「ええ」
  驚いたことに、エミリアはあっさりうなずいた。
「この地面は巨大な球で、太陽の周りをすごい速さで回っているんですってね。 まるで糸に結び付けられた甲虫のように」
  若い娘でここまで科学的な話ができるのは初めてだった。 アルマンドはすっかり夢中になった。
「目みたいでもありますね。 丸い表面を、波の涙が洗っている」
「きれいな形容ね」
  エミリアは手を伸ばして、折り込んだはずなのに袖口からはみ出てきたレースに触れた。
「それに上等なレース。 あなた本当に護衛なの?」
「ええ」
  アルマンドはむきになって言った。
「カルナヴァルの費用を稼ぎたいんです。 心を込めてお守りします」
  その指が、レースにさわっているエミリアの指先に触れた。 不意にアルマンドは、衝動的にその指先を唇に持っていった。
  そのとき、岸から突然呼び声がかかった。
「アルマンド! そこで何やってる!」
  驚いて、アルマンドは立ち上がった。
「何やってるって、もちろん」
「もちろん何だ! エミリアさんがさっきから待ちくたびれて、うちに使いをよこしたんだ。 違う女くどいてるんじゃないよ!」
  愕然として、アルマンドはキャポネラの中に眼をこらした。
「いったいあなたは……」
「行って!」
  女は鋭くささやいた。
「私は私の客を取るの。 もう邪魔しないで」
  わけがわからないままに、アルマンドはゴンドラを岸に寄せて飛び降りた。 迎えに来ていたジュゼッペが腕を掴んで、いつの間にか隣りにつけていたゴンドラに引っ張っていった。








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