夜明け前にジーナはごそごそ起き上がり、そそくさと支度を始めた。 グストは頭の後ろに手を回し、ベッドヘッドにもたれかかってその様子をながめていたが、彼女がお別れのキスをしに来たときに、思わず腕を捕らえた。 そして囁いた。
「また会えるか?」
今度はすっと答えは返ってこなかった。 沈黙の後で、ジーナは歯切れ悪く言った。
「カルナヴァルの間は……たぶんだめだと思う」
思わずグストはベッドに起き上がってしまった。
「11日間もか? わたしはこの祭りの間しかここにはいないんだ。 終わったら軍隊に戻らなきゃならない」
明らかにぎくっとして、ジーナは彼の顔を見つめた。
「軍隊……?」
「そうだ。 見てのとおり、わたしは軍人なんだから。 新大陸で戦っているフランス将校なんだ」
「新大陸……」
ジーナは絶句した。
「そんな地の果てで?」
グストは強くうなずいた。
「なんとかならないか? これっきりで別れたくない」
ジーナは唇を噛んだが、言葉は発せずにそのままドアに向かおうとした。 グストはベッドから飛び出して、彼女を引き止めた。
「ジーナ!」
「やめて!」
きつく袖を振り払うと、ジーナは鋭い声になった。
「お互い遊びでしょう? カルナヴァルにはまた新しい相手を見つけなさいな」
「待ってくれ!」
すっと腕の下をすり抜けていく娘を捉えそこねて、グストはそのまま追っていこうとしたが、裸なのに気付いてあわててズボンを身につけた。 その間にジーナは軽い足音を立てて階段を駆け下り、外に出ていって、消えてしまった。
リッツォに尋ねても、ジーナがどこの屋敷に勤めているかわからなかった。 だいたい連れこみ宿の主人に客が正体を明かすはずはない。 ジーナという名前でさえ、本名とはかぎらないのだった。
うつむき加減で道を歩いていると、軽快な足音が追ってきて、若い男の声が聞こえた。
「兵隊さん!」
機嫌が悪かったので、グストは振り向こうとせず、マントをぐっと体に引き寄せて早足になった。
背後の足音は駆け足になり、グストの前に回りこんだ。 茶色の巻き毛をしたかわいい少年が、息を切らせながらグストに話しかけた。
「待ってくださいよ。 足が速いんだから。
あのね、僕のご主人が、ドローロ候爵がね、あなたに会いたいって」
「誰だ、それ」
やむなく立ち止まって、グストは尋ねた。 初めて聞く名前だ。 少なくともこの土地では、貴族に知り合いはなかった。 父の得意客だろうか。
「だから候爵。 古くから続いている由緒ある貴族なの。 来て損はないよ。 頼みたいことがあるんだって」
グストは少し考え、行くことにして少年の後に従った。 すっきりしない気分で家に帰りたくなかったし、好奇心も手伝った。 侯爵が自分に、いったい何の用事があるというんだろう。
朝もやの中、アルマンドは運河の岸に立っていた。 エミリアの用心棒はもう終わったが、帰る気持ちになれず、もう1時間も淡い霧の中に視線をこらしているのだった。
彼方にサンマルコ寺院のシルエットが紫色にかすんでいる。 その前にひろがる白い霧の中から、またあのゴンドラが音もなくすべり出てこないかと、アルマンドは期待していた。
金がほしい――生まれてはじめて、アルマンドは痛切に願った。 彼女はこの時間にも客を取っているかもしれない。 あんなに上品な、可愛い声で笑う人が、男の相手をして暮らしているなんて……
僕が金持ちだったら、とアルマンドは心から思った。 彼女を苦界から救い出したい。 だが、どんな手段があるというのか。
家を継げば、という誘惑に、アルマンドは激しく首を振った。 それだけはしたくない。 してはいけないと自分に言い聞かせてきた。 でも、カルナヴァルの小遣いにさえ困る、今の有様では、つい誘惑に駆られそうになる。 だめだ! とアルマンドは自分を叱った。 信念を曲げるようじゃ、恋をする資格なんかない。
次第に朝霧は海に消え、太陽が昇ってきた。 目の前の大きな建物が、くっきりと見えるようになった。 ジュゼッペ・グンナーレの屋敷だ。 大富豪で、2人の娘を持つグンナーレ。
アルマンドの手から、握りしめていた帽子が落ちた。 たった今、途方もないことを思いついてしまったのだ。 金は手に入る。 確実とは言えないが、たぶん……
「うちを出ていける。 誰も悲しませず、堂々と!」
落ちた帽子を拾い上げると、アルマンドは空高く放り投げた。 そして笑いながら受け止め、跳ぶような勢いで走り出した。
グストが案内されたのは、全体が低いヴェネツィアの中では高台に当たる、つまり高級住宅地の真っ只中にある、白亜の豪邸だった。 きらびやかな門の横についた通用口から、少年はグストを招き入れ、ギリシャ風の柱が林立した外回廊を通り、庭からじかにガラスをふんだんに使った美しい部屋に入った。
そこはまさに御伽噺(おとぎばなし)のような広間だった。 白い壁はどこもかしこも浮き彫りに飾られ、2メートルおきに燭台が取り付けられていた。 その他に巨大なシャンデリアが2つ、これまた真っ白な天井から吊り下げられている。 目が痛くなるほど明るく、贅を尽くした空間だった。
間もなく奥の扉が開き、黒服に身を包んだ男性が現れた。 すらりとしている、というより、がりがりに痩せているが、顔立ちは品があり、家柄のよさをしのばせた。
グストが帽子を振って正式に挨拶すると、侯爵はやさしくうなずき、すぐ用件に入った。
「急にお呼び立てしたのに、よく来てくれた。
今日からカルナヴァルなのは、もちろん知っているね。 1年でもっとも楽しい時期なのだが、あいにくわたしは体調が悪く、妻を連れていってやれないのだ。
それで、君に頼みたい。 妻の護衛兼案内役として、カルナヴァルに連れていってやってくれないか?」
グストは驚き、思わず首をかしげた。 これは、行きずりの軍人に頼むことだろうか。
「失礼ですが、なぜわたしに?」
「実は君のことを調べたのだ。 レジオーニ氏の養子だそうだね」
グストの表情が硬くなった。 侯爵は彼の反応に構わず、話を続けた。
「身元は確かだし、人柄を悪く言う者は一人もいない。 君なら妻を託しても安心だと思ったのだ。 どうかね?」
金持ちの奥方の御守役――あまりうれしくなかった。 どうせわがままで身勝手だろうし。
断ろうと口を開きかけたとき、侯爵が言った。
「まず会ってもらおう。 それから決めてくれ。 引き受けるか、どうか」
仕方なく、グストは侯爵の後について廊下に出た。
長い廊下を歩いていくと、どこからかきゃんきゃんという甲高い鳴き声が聞こえ、はなやかな叫びが響いてきた。
「まあ、トントンたら、またおもらししちゃって!」
トントン! さっとグストが顔を振り向けると、ちょうど2つ先のドアが開いて、若い侍女が見覚えのある小犬をかかえて出てくるところだった。
長い顔をしたその少女は、侯爵を見ると腰をかがめてお辞儀をした。 侯爵は笑いながらトントンを受け取った。
「また悪さをしたか。 誕生祝にこんなものをやって、リーザは迷惑だったかな」
「いいえ、そんなことは。 奥様はこの子をたいそうかわいがっておられます」
胸が高鳴ってきたので、グストは侯爵に知られないよう深呼吸をひとつした。 それではこの屋敷は、ジーナが勤めている場所なのだ。 もしかするとこの仕事の推薦人は彼女かもしれない。 また会える。 ジーナに会える! グストの胸がまた盛り上がった。
ドアを軽くノックして、侯爵は尋ねた。
「わたしだ。 中にいるかね?」
「どうぞ」
こもった声が聞こえた。 侯爵はすっとドアを開け、中に入ってからグストを差し招いた。
「入ってくれ。 妻のリーザだ」
だが戸口で、グストの足は釘付けになった。 部屋の中央に立ち、扇子をせわしなく開いたり閉じたりしている華やかなドレスの美人。 それは、ジーナその人だった。
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