表紙

57 心からの求婚


 リーザ夫人とわかったジーナの手から、するっと扇が抜け落ちた。 グストは腰を折ってその扇を拾うと、礼儀正しく夫人に渡した。
  しかし、黒い目は秘められた怒りにいぶっていた。 リーザは扇子を引ったくるように受けとると、大きな青年の横にいる枯れ木のような夫に高い声で呼びかけた。
「この人なの? あなたが見つけた護衛って」
「そうだよ」
  侯爵は穏やかに答えた。 振り向いたグストがじっと見つめても、その表情は微動もしなかった。
  いったいこの夫婦は何を考えているのか、グストには理解不能だった。 侯爵は、調べたと言った。 わずかな時間でできることではない。 とすると、最初の逢引きのときから、浮気相手を彼だと知っていたのだろう。
  リーザは小さい肩をそびやかして不機嫌そうに言った。
「護衛はトニオで充分よ。 剣の達人なんだから」
「カルナヴァルの間ぐらい、恋人とゆっくり過ごさせてやりなさい」
  そう言った直後、侯爵はむせて、激しく咳き込んだ。 とたんにリーザは顔色を変えて飛んでいき、夫を抱きかかえるようにしてカウチに座らせた。
「立ってらしちゃだめよ。 今日はちょっと顔色が悪いわ。 お医者様を呼びましょう」
「いいんだ」
  喉の痰を切ろうとしながら、侯爵はがらがら声で言った。
「さあ、もう祭りが始まる。 行っておいで。 おまえの楽しい顔がわたしの生きがいなんだから」
  とたんにリーザの眼が赤くなるのを、グストは確かに見た。 だが3度まばたきして笑顔を作ると、リーザは明るく言い返した。
「もうちょっとしたらね。 マリア、マリア! だんな様の部屋に行ってひざ掛けを取ってきて。 ここでしばらくお休みになるから」
「かしこまりました」
  さっきトントンを抱いていた侍女が、戸口から現れて答え、すぐにまた去って行った。 かしこい小犬は床に座り、心配そうな顔でカウチに伏した主人を見つめていた。
  横たわって力なく眼をつぶる侯爵は、立っていたときよりずっとふけて見えた。 おそらく60歳は越えているだろう。 横に膝をついて心配そうに見守る妻とは、どう見ても40年の年の開きがあった。
  すぐに断って立ち去ろうとしたのに、この騒ぎで動けなくなったグストは、忘れられたようにガラス戸の前に立っていた。 だがリーザは彼を忘れたわけではなかった。 間もなく侯爵が眠りに落ちると、すっと立ち上がって、まともにグストと向き合った。 そして、挑戦的に言った。
「ふくれた顔しないで」
  グストの唇が一文字になった。
「小間使いと言わなかったか?」
「いいじゃないの」
  リーザはまるで平気だった。
「別に損をしたわけじゃなし」
  大損だ――グストは胃がねじれるような思いを味わっていた。 彼女には軽い浮気だっただろう。 だが彼は、心を差し出してしまったのだ。 まさか人の妻とは知らずに。
  もう物をいう元気もなく、くるりと向きを変えて部屋を出ようとしたグストに、リーザは鋭い声を浴びせた。
「断るの? 病気のこの人に、もっと心配させたいの?」
  なんて一方的な言い分だ。 グストは不快感が胃から胸に上がってくるのを感じた。 もうじき頭まで昇りそうだ。 だがリーザはつかつかとすぐ後ろまで来て、腕を取った。 そして言った。
「10日だけよ。 それもべったり付き添ってくれとは言わないわ。 夕方から夜まで護衛して」
  これが他の女なら、振り切って去っていっただろう。 だがこの裏切り者とは、自分の方が金を払ってでもそばにいたかった。 グストの頬が小さく引きつった。
「いくらでわたしを買う?」
  引き受けると決めた男の、ささやかな抵抗だった。 リーザは息を吸い、小声で言った。
「夫は百エキュ出すと言ってたわ」
  それは相当な大金だった。 グストは体の向きを変え、脇にはさんでいた帽子を小机に置いた。
「よし、やろう」


 日が高くなる前に家に戻ったアルマンドは、自分の部屋で青い服に着替えた。 母が18歳の誕生祝に作ってくれたビロードの服は、アルマンドの紺色の眼によく合って、美貌を最大限に引き立てていた。
  この服は滅多に着ない。 もったいないからだ。 しかし、今日は絶対に必要だった。
  帽子につけた羽を粋にかしげながら、アルマンドはふと考えた。 こんな重大なことを誰にも相談せずにやっていいものだろうか。
  だが決意は揺るがなかった。 それどころか強まった。 これまで遊びまわっていると叱られどおしだったが、ようやく人生の道筋が定まった気がした。 やれるところまでやってみよう。 鏡に向かってうなずいてみせると、アルマンドは勇ましく、しかしなぜか裏口から、家を出た。

  道はすでににぎやかで、あちこちに花火が響いていたが、まだ夜の本番の序幕といったところだった。 
  青い薔薇というものがあるとすれば、まさに着飾ったアルマンドがそれで、すれ違う人々の溜め息を誘うほど美しかった。 しかし、彼は珍しく真面目な顔で、わき目もふらずに歩いていった。
  アルマンドが足を止めたのは、今朝目の前に見たあの大きな屋敷、グンナーレ館だった。 ノッカーを叩いて案内を請うと、中から顔を覗かせた下男が、息を呑んで問いかけた。
「家をお間違えなんじゃ?」
  びっくりして、アルマンドは答えた。
「いや。 ジュゼッペ・グンナーレさんにお目にかかりたいんだが」
「やっぱりうちか」
  首をかしげながら、下男は扉をあけた。
「ひょっとしてスザンナ様を見初めたとかですか? だめですよ、あの方は。 斧で裂いても裂けないと言われてる恋人がいるんですから」
  苦笑して、アルマンドは告げた。
「僕が来たのは、クリスティーナさんのためだ」
  下男の口がぽかんと開いた。 目も限界いっぱいまで見開かれた。
「は……?」
「そんなに驚くことじゃないだろう。 クリスティーナさんだって年ごろなんだから」
「それはそうですが……でも何であなたが?」
「僕じゃいけないか?」
「いえ! よすぎるんですよ」
「ばか!」
  あきれて下男の口を塞ごうとしたアルマンドの前に、堂々とした体躯の、つまり相当太った、太鼓腹の男が現れて道を塞いだ。 遠雷のような声が尋ねた。
「これはアルマンド・レジオーニ君。 午前中から何の用だね」
  暗にいつもの寝坊を皮肉られて、アルマンドは顔を赤らめた。 それでも丁重に一礼して、彼ははっきりとした声で言った。
「おはようございます。 今日はクリスティーナさんに求婚するために伺いました」
  たちまちジュゼッペ氏の口があんぐりと開いた。 下男と同じ反応だな、と思ってアルマンドが見ていると、氏は息が苦しくなったらしく、横を向いて咳き込んだ。
「ちょっ……ちょっと待ってくれ。 今、何と言った?」
「ですから」
  アルマンドは辛抱強く繰り返した。
「お宅のクリスティーナさんと結婚させてくださいと言っているんです」
「君が!」
「はい」
「町一番の美人に追いまわされている、君がか!」
  ジュゼッペ氏は疑心暗鬼になった。
「何があった? まさかあの謹厳な父上に家を追い出されたとか」
  アルマンドは平然と答えた。
「もうじきそうなるかもしれませんが、今のところは大丈夫です」
「それじゃなぜ!」
  アルマンドは心から言った。
「クリスティーナ・グンナーレ嬢の夫になりたいからです」








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