リーザ夫人とわかったジーナの手から、するっと扇が抜け落ちた。 グストは腰を折ってその扇を拾うと、礼儀正しく夫人に渡した。
しかし、黒い目は秘められた怒りにいぶっていた。 リーザは扇子を引ったくるように受けとると、大きな青年の横にいる枯れ木のような夫に高い声で呼びかけた。
「この人なの? あなたが見つけた護衛って」
「そうだよ」
侯爵は穏やかに答えた。 振り向いたグストがじっと見つめても、その表情は微動もしなかった。
いったいこの夫婦は何を考えているのか、グストには理解不能だった。 侯爵は、調べたと言った。 わずかな時間でできることではない。 とすると、最初の逢引きのときから、浮気相手を彼だと知っていたのだろう。
リーザは小さい肩をそびやかして不機嫌そうに言った。
「護衛はトニオで充分よ。 剣の達人なんだから」
「カルナヴァルの間ぐらい、恋人とゆっくり過ごさせてやりなさい」
そう言った直後、侯爵はむせて、激しく咳き込んだ。 とたんにリーザは顔色を変えて飛んでいき、夫を抱きかかえるようにしてカウチに座らせた。
「立ってらしちゃだめよ。 今日はちょっと顔色が悪いわ。 お医者様を呼びましょう」
「いいんだ」
喉の痰を切ろうとしながら、侯爵はがらがら声で言った。
「さあ、もう祭りが始まる。 行っておいで。 おまえの楽しい顔がわたしの生きがいなんだから」
とたんにリーザの眼が赤くなるのを、グストは確かに見た。 だが3度まばたきして笑顔を作ると、リーザは明るく言い返した。
「もうちょっとしたらね。 マリア、マリア! だんな様の部屋に行ってひざ掛けを取ってきて。 ここでしばらくお休みになるから」
「かしこまりました」
さっきトントンを抱いていた侍女が、戸口から現れて答え、すぐにまた去って行った。 かしこい小犬は床に座り、心配そうな顔でカウチに伏した主人を見つめていた。
横たわって力なく眼をつぶる侯爵は、立っていたときよりずっとふけて見えた。 おそらく60歳は越えているだろう。 横に膝をついて心配そうに見守る妻とは、どう見ても40年の年の開きがあった。
すぐに断って立ち去ろうとしたのに、この騒ぎで動けなくなったグストは、忘れられたようにガラス戸の前に立っていた。 だがリーザは彼を忘れたわけではなかった。 間もなく侯爵が眠りに落ちると、すっと立ち上がって、まともにグストと向き合った。 そして、挑戦的に言った。
「ふくれた顔しないで」
グストの唇が一文字になった。
「小間使いと言わなかったか?」
「いいじゃないの」
リーザはまるで平気だった。
「別に損をしたわけじゃなし」
大損だ――グストは胃がねじれるような思いを味わっていた。 彼女には軽い浮気だっただろう。 だが彼は、心を差し出してしまったのだ。 まさか人の妻とは知らずに。
もう物をいう元気もなく、くるりと向きを変えて部屋を出ようとしたグストに、リーザは鋭い声を浴びせた。
「断るの? 病気のこの人に、もっと心配させたいの?」
なんて一方的な言い分だ。 グストは不快感が胃から胸に上がってくるのを感じた。 もうじき頭まで昇りそうだ。 だがリーザはつかつかとすぐ後ろまで来て、腕を取った。 そして言った。
「10日だけよ。 それもべったり付き添ってくれとは言わないわ。 夕方から夜まで護衛して」
これが他の女なら、振り切って去っていっただろう。 だがこの裏切り者とは、自分の方が金を払ってでもそばにいたかった。 グストの頬が小さく引きつった。
「いくらでわたしを買う?」
引き受けると決めた男の、ささやかな抵抗だった。 リーザは息を吸い、小声で言った。
「夫は百エキュ出すと言ってたわ」
それは相当な大金だった。 グストは体の向きを変え、脇にはさんでいた帽子を小机に置いた。
「よし、やろう」
日が高くなる前に家に戻ったアルマンドは、自分の部屋で青い服に着替えた。 母が18歳の誕生祝に作ってくれたビロードの服は、アルマンドの紺色の眼によく合って、美貌を最大限に引き立てていた。
この服は滅多に着ない。 もったいないからだ。 しかし、今日は絶対に必要だった。
帽子につけた羽を粋にかしげながら、アルマンドはふと考えた。 こんな重大なことを誰にも相談せずにやっていいものだろうか。
だが決意は揺るがなかった。 それどころか強まった。 これまで遊びまわっていると叱られどおしだったが、ようやく人生の道筋が定まった気がした。 やれるところまでやってみよう。 鏡に向かってうなずいてみせると、アルマンドは勇ましく、しかしなぜか裏口から、家を出た。
道はすでににぎやかで、あちこちに花火が響いていたが、まだ夜の本番の序幕といったところだった。
青い薔薇というものがあるとすれば、まさに着飾ったアルマンドがそれで、すれ違う人々の溜め息を誘うほど美しかった。 しかし、彼は珍しく真面目な顔で、わき目もふらずに歩いていった。
アルマンドが足を止めたのは、今朝目の前に見たあの大きな屋敷、グンナーレ館だった。 ノッカーを叩いて案内を請うと、中から顔を覗かせた下男が、息を呑んで問いかけた。
「家をお間違えなんじゃ?」
びっくりして、アルマンドは答えた。
「いや。 ジュゼッペ・グンナーレさんにお目にかかりたいんだが」
「やっぱりうちか」
首をかしげながら、下男は扉をあけた。
「ひょっとしてスザンナ様を見初めたとかですか? だめですよ、あの方は。 斧で裂いても裂けないと言われてる恋人がいるんですから」
苦笑して、アルマンドは告げた。
「僕が来たのは、クリスティーナさんのためだ」
下男の口がぽかんと開いた。 目も限界いっぱいまで見開かれた。
「は……?」
「そんなに驚くことじゃないだろう。 クリスティーナさんだって年ごろなんだから」
「それはそうですが……でも何であなたが?」
「僕じゃいけないか?」
「いえ! よすぎるんですよ」
「ばか!」
あきれて下男の口を塞ごうとしたアルマンドの前に、堂々とした体躯の、つまり相当太った、太鼓腹の男が現れて道を塞いだ。 遠雷のような声が尋ねた。
「これはアルマンド・レジオーニ君。 午前中から何の用だね」
暗にいつもの寝坊を皮肉られて、アルマンドは顔を赤らめた。 それでも丁重に一礼して、彼ははっきりとした声で言った。
「おはようございます。 今日はクリスティーナさんに求婚するために伺いました」
たちまちジュゼッペ氏の口があんぐりと開いた。 下男と同じ反応だな、と思ってアルマンドが見ていると、氏は息が苦しくなったらしく、横を向いて咳き込んだ。
「ちょっ……ちょっと待ってくれ。 今、何と言った?」
「ですから」
アルマンドは辛抱強く繰り返した。
「お宅のクリスティーナさんと結婚させてくださいと言っているんです」
「君が!」
「はい」
「町一番の美人に追いまわされている、君がか!」
ジュゼッペ氏は疑心暗鬼になった。
「何があった? まさかあの謹厳な父上に家を追い出されたとか」
アルマンドは平然と答えた。
「もうじきそうなるかもしれませんが、今のところは大丈夫です」
「それじゃなぜ!」
アルマンドは心から言った。
「クリスティーナ・グンナーレ嬢の夫になりたいからです」
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