スザンナ・グンナーレの悲恋は、聖ポカ橋付近では有名な話だった。 といっても、別にどちらかの親が反対しているのではない。 リカルドの親はもうとっくに許しを与えていた。
ジュゼッペにしても相手のリカルド・モデスタに不満があって結婚を許さないわけではないのだが、スザンナが13、リカルドが15の年から始まったこの恋は、すでに4年間経っているのに、婚約にさえ進んでいなかった。
理由はただ一つ、クリスティーナ・グンナーレだ。 今年19になるクリスティーナはスザンナの姉で、ジュゼッペの秘蔵っ子だった。 姉娘がかわいくてたまらないジュゼッペは、長幼の序を持ち出して、クリスティーナに婿が見つからないうちは妹を先に結婚させることは断じてないと宣言してしまったのだ。
それが4年前だった。
クリスティーナが醜いという噂はない。 美人だとも言われてはいないが、まあ普通の容姿らしい。 なぜはっきりわかっていないかというと、クリスティーナがあまり歩けないからだった。
小さいときわずらった病で、クリスティーナは足が不自由になった。 まったく動けないということではないが、せいぜい家の中を移動するぐらいで、階段の上り下りはできない。 だから寝室は一階にあった。
享楽的なヴェネツィアにあって、踊れないというのは大きなハンデだ。 それでも富豪の娘だから、求婚者はぽつぽつとやってきた。 しかし財産目当てか、婿になってやるという態度の大きい者か、ともかくろくなのが来なかったので、怒ったジュゼッペが片っ端から断ってしまった。
ジュゼッペは真面目な顔で求婚しに来たアルマンドをどうしたらいいかわからない様子で、幾度も首をひねった。
「しかしなあ…… クリスティーナの気持ちも聞いてみないと……」
語尾が小さく消えていった。 ヴェネツィア広しといえども、アルマンド・レジオーニを断る女がいるだろうか。 いたらお目にかかりたい。 それにこれまでだってクリスティーナは一度も……
引きずるような音がして、家の奥から一人の娘が進み出てきた。 ジュゼッペははっとして顔を向けた。
アルマンドも彼女を見た。 そして、内心驚いた。 美人じゃないか。
クリスティーナ・レジオーニは色の白い娘だった。 あまり日に当たっていないからかもしれないが、肌が美しく、怜悧な大きい眼をしていた。
杖を使いながら歩いてきたクリスティーナは、やわらかく低い声で言った。
「ひとつだけ答えてください。 絶対に後悔しないと誓えますか?」
アルマンドはしっかりと答えた。
「後悔などしません」
クリスティーナは父を見た。 そして、かすかに声をふるわせながら頼んだ。
「受けてください、お父様」
ジュゼッペは一瞬顔をくしゃくしゃにした。 だがかわいい娘の頼みだ。 うなずくしかなかった。
いよいよカルナヴァルの始まりだった。 老いも若きも仮面をつけ、様々な装いをこらして街に出た。 花馬車が練り歩き、夜店が並び、空には花火が打ちあがる。 遠くで潮鳴りのように大砲の音まで響いていた。
グストは腰の剣を点検してから、リーザに従って、しゃれた馬車に乗った。 すでに広場では踊りの渦ができていて、通り抜けるのに時間がかかった。
馬車のカーテンを少しめくって外を見ながら、リーザはつぶやいた。
「今夜はあの目立つ金髪の坊やがいないわ。 どうしたのかしら」
そして、石のような顔で座っているグストに横目をくれた。
「アルマンド・レジオーニって、あの子あなたの弟なんでしょう?」
「ええ」
グストが他人行儀に答えると、リーザは口の端だけでにこっと笑った。
「彼のために、あなたは家を出たのね」
グストの表情がわずかに動いた。 2人の視線が狭い馬車の中で火花を散らした。
「彼は実の子、あなたは養子。 そしてレジオーニさんは公平で知られた人物。 あなたは身を引いて、弟に家督を譲るべきだと思った。 泣かせるわね」
ガチャッと剣の音をさせて座りなおすと、グストは冷ややかな声で言った。
「俺の父親は悪党だった。 それも食いっぱぐれた惨めな夜盗だ。 そんな男の子供に、義理の父は学問をさせ、実の子同様に大切にしてくれた。 あれだけしてもらえれば、俺には充分すぎるほどだ」
「後を継いで店を盛り立てるのも恩返しじゃない? アルマンドじゃあっという間につぶしてしまいそうだわ」
「そんな奴じゃない! 表面だけで判断するな」
リーザは驚かず、笑顔を大きくした。
「なるほどね。 あの子の方も芝居してるわけね。 あっちはあなたに譲りたいんだ」
グストは顔をそむけ、外の騒ぎに気を取られたふりをした。 ハンカチを結んでウサギを作りながら、リーザは独り言のように呟いた。
「じゃ、2人で協力して店を大きくすればいいのにね」
グストは答えなかった。
馬車は、総督が今夜盛大な舞踏会を催すドゥカーレ宮殿に向かっていた。 やがてトルコ風のすかし模様がついた壮麗な宮殿が目の前に現れ、大変な喧騒の中を進んだ馬車は、馬車止めにたどりついた。 とたんに建物から従者が飛び出してきて馬を押さえた。 一方公爵夫人のお付きは馬車から飛び降りて扉の前の段を下げ、手をそえてリーザを助けおろした。
護衛に招待状はないので、グストは庭で待機することになった。 昼間のように明るい大広間をちらちらと眺めながら、手入れの行き届いた庭を歩いていたグストは、淡い暗がりにぼんやりと白い服が浮き出て見えたので、足を止めた。
大理石のパンの像に寄りかかるようにして立っているのは、16,7の少女だった。 熱心にダンス会場を覗きこんでいる。 その眼が見つめているのは、ガラス窓のそばで談笑している4人の若い男女の一人らしかった。
「どうしてこんなところに?」
グストがやさしく尋ねると、娘はびっくりして顔を向けた。
「あの……招待されなくて」
「わたしと同じだ」
苦笑したグストを見て、少女も微笑んだ。 たいていの人がグストに親しみを持つ。 必死で戦っているとき以外は、暖かい雰囲気が常にグストを取り巻いていた。
残念そうにきれいな靴を見下ろして、少女は呟いた。
「新しい靴を作ったのに、踊れなくて」
「それじゃ、わたしでよかったら」
と言いながら、グストは手を差し伸べた。 会場の優雅なダンス曲が、庭まで響いている。 充分合わせて踊ることのできる音量だった。
少女は驚くほどダンスがうまかった。 グストも宮廷仕込みで、たいていのダンスは難なく踊ることができた。 ふたりは月の光を浴びて、庭を優雅に回りつづけた。
妖精の踊りのように幻想的に見えたのだろう。 少し経つと中の客たちが窓に寄って、面白そうに二人を眺めるようになった。 さっき談笑していた若者たちも話を止めて眼を向けた。
中の一人が、目を吊り上げて扉を開き、庭に出てきた。 そして怒ったように叫んだ。
「ベルタ! 何をしている! 知らない男に近づくんじゃない!」
ベルタと呼ばれた少女はちらっと舌を出し、グストに耳打ちした。
「兄なんです。 すぐ怒るの」
黒髪の若者は石段を駆け下りて妹に近づいた。 だがグストの顔が見分けられる距離に来ると、はっとして足を止めた。
「……アウグストさん?」
「そうだ、チェーザレ」
とたんにチェーザレはぱっと笑顔になって、グストに飛びついた。
「いつ帰ってきたんです! 水くさいな、知らせてくれないなんて」
仲間の青年たちも庭に出てきて、グストとの再会を喜んだ。 肩を叩きあいながら、グストは驚いていた。
「3年近く見ないと、みんな大きくなったな」
「アウグストさんもずいぶん変わりましたよ。 大人って感じだ。 貫禄が出ましたね」
「さあ、入りましょう。 ここは寒い」
「でも招待状が……」
「そんなのどうでもいいですよ。 ほら、ここに総督の息子がいるし。 おーい、ベルタ、ついでにお前も入っていいよ」
ベルタは大喜びで、片手を兄に、もう片手をグストに預けて、誇らしげに大広間に入っていった。
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