表紙

59 夜は更けて


 大広間に入ったとたん、グストの表情が隼のように引きしまった。 リーザの横にいつの間にか男がくっついている。 茶色のカツラに金粉を振って、派手に光らせているようだ。 白い半マスクをしているので表情は定かでないが、頬から口にかけての線はなかなか美しかった。
  そのうちリーザの笑い声が人ごみを縫って響いてきたので、グストはわけのわからない怒りを覚えた。 相手の男はここぞとばかりリーザにもたれかかり、しきりに耳に何かをささやきかけている。 ふざけてリーザが手で叩き返したところで、グストの忍耐は切れた。
  つかつかと2人に歩み寄ると、グストは言葉だけは丁重に言った。
「人いきれでお疲れでしょう。 広場で花火でもごらんになりませんか?」
  横にいた男はマスクの下の眼を細め、馬鹿にしたように顎をしゃくった。
「カエル食い(=フランス人への悪口)がこんなところで何をしている。 軍人は外で見張りでもしていろ」
  すっとリーザの手が伸びて、グストの指を持ち上げた。 すました声が言った。
「花火よりも、私踊りたいわ。 さあ、いらっしゃい!」
  あっけに取られたマスク男を後に残して、二人は優雅に踊り始めた。
  リーザもベルタに優るとも劣らないほど踊りが上手だった。 2人は羽根が生えたように軽く舞い、また人々の注目を集めた。
  白鳥のような首を見せて旋回しながら、リーザがささやいた。
「なんでこんなにダンスがうまいの?」
「子供のころに仕込まれてね」
「あなたって不思議な人ね」
  小さな溜め息と共にリーザは呟いた。
「奥が深いっていうのか、次々と新しい引出しが現れるみたい」
「わたしはただの兵隊だよ」
  グストはそっけなく答えた。


 クリスティーナの許可をあっという間に得てしまったアルマンドに、父のジュゼッペは1つだけ条件を出した。 ジュゼッペから見ると、とても厳しい条件だった。
  それは、正式に婚約を発表するまで一ヶ月間、グンナーレ家の仕事を覚えること、というものだった。 きっと音を上げて逃げ出すさ、と、ジュゼッペはひそかに思っていた。
  グンナーレ家の家業は、もともとはワインの販売だった。 ボルドーの大農場を持つ親戚と契約して割安で上物を手に入れ、急速に発展して土台ができると、毛織物の輸入やカメオの加工に手を出して、そこそこの成功を収めた。
  ジュゼッペは3代目に当たる。 父は凡庸だったが、ジュゼッペは真面目な努力家で、父の後を引き継いでから利益を1.5倍ほどに増やしていた。
  娘と仕事が生きがい、というジュゼッペから見れば、アルマンドは最悪の求婚者だった。 この美しさ、生活の派手さで、グンナール家を一代でつぶしてしまうかもしれない。 正体を娘に知らせるなら今のうちだ、と心に決めて、ジュゼッペは求婚当日からさっそくアルマンドを部屋に呼び、去年の分の帳簿を見せた。
  細かい字でぎっしり書いてある大きな帳簿を、アルマンドは無表情にめくった。 そら、逃げ出したくなっただろう、とジュゼッペが内心ほくそえんでいると、アルマンドの手がふと止まった。 そして頁の下に目をこらし、驚いたように言った。
「抜けてますよ」
「え?」
  何を言ってるんだ――ジュゼッペは揚げ足を取ってやろうと、自分も帳簿を覗き込んだ。
  アルマンドは走り書きされた一行を指で示した。
「ここです。 これとこれとこれを足すと貸方は320、こっちの借方は254。 66がどこかへ消えています」
  ジュゼッペのどんぐり眼が大きく開いた。

  2人は座り込み、帳簿の点検を始めた。 1時間後にわかったのは、帳簿係が巧妙に少しずつ売り上げを横領していたことと、そしてアルマンド・レジオーニが凄い計算能力を持っていたことだった。 彼は異様なほど数字に強く、加減乗除だけでなく利子や日割りの計算まで、ちょっと書いただけで簡単に割り出してしまうのだった。
  気温は低いのに、ジュゼッペは首筋にじっとりと湿った汗が流れるのを感じた。 藪をつついてヘビを出す例えではないが、まったくの遊び人に見えた青年がこれほど冷静に能力を発揮するのを見るのは、不気味でさえあった。
  磨り減った鵞ペンを捨てて新しいのを取り出しながら、ジュゼッペは力ない声で尋ねた。
「いったいどこでこんなことを覚えたんだね?」
  アルマンドはちょっと笑った。
「両親からです。 母は何十年もやっていて帳簿つけの名人ですし、父は船の喫水量から船倉の耐荷重量、帆の面積や角度、風力などを始終計算してるんです。 だから自然に」
  そら恐ろしい一族だ。 ひょっとすると大変な掘り出し物の婿を手に入れたかもしれないとわかって、ジュゼッペはわくわくし始めた。


 9時半ごろ、リーザは疲れたと言ってグストをうながし、宮殿を出た。 まだ人々は楽しげに騒いでいる。 賭けに負けた男が大きな布に載せられて空高く放り上げられているのが、広場の端に見えた。
  馬車の中で、2人は行き以上に無言だった。 ゆるい上り坂を踏みしめて、馬たちがゆっくりと歩を進める。 誰かが旗ざおを倒したのだろうか、1頭の馬が前足を引っかけてよろめいた。
  馬車がぐらっと揺れた。 座席から落ちそうになって、リーザはグストの膝に崩れこんだ。
  ぐっと支えたとき、顔が触れ合うほど近づいた。 グストはこらえきれなくなって、リーザを獲物のように捕まえると、火にも負けない激しい口づけを浴びせた。 リーザは逆らわず、じっとしていた。


 どっしりした石造りのバルコニーに出ると、下の道で人々が大きな輪になって踊っているのが見えた。 調子外れの楽隊のラッパが聞こえる。 だがアルマンドの関心は道を越えた運河にあった。
  彼女は今夜も舟で漕ぎ出しているのだろうか。 どうしてあのとき、ゴンドラには漕ぎ手がいなかったのだろう。 たった一人で波に揺られて、さぞ心細かったろうに……
  彼女と引き離された後で行ったエミリアの舟は、まるで違った様子だった。 にぎやかで、3人もの若い貴族が乗り込み、甘いお世辞と豪華な贈り物で競っていた。
  会いたい――顔さえ知らない人なのに、アルマンドは熱に浮かされたようにバルコニーから庭に降り、大きなマスクで顔を隠して、踊り騒ぐ群集の間を横切った。 あの寂しげな、やさしい笑い声の娼婦を求めて。








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