表紙

61 侯爵の死


 翌日ジュゼッペがいつも通り6時に起きだしたとき、アルマンドはもうきちんと服をまとって、下のテラスから長く広がる運河を見渡していた。  それを見て、ジュゼッペは感心を通り越して感激してしまった。 この未来の婿殿は、噂とは180度違う。 賢いし、いい意味で計算高いし、おまけに真面目だ。
  だが実は、ジュゼッペが知らなかっただけで、アルマンドは今起きたところではなく、まったく寝ていなかったのだ。
 一晩中運河の周辺をさまよって、何一つ収穫はなかった。 パオロが教えてくれた5人の遊び姫にはすべて当たったが、かすかに似ている者さえいなかった。 みんな態度が派手で奥ゆかしさがなく、声が高い。 教養もあまり感じられず、やはり流しの女はこの程度かという者ばかりだったのだ。
  それでも背後にジュゼッペの挨拶が聞こえると、アルマンドは気を取り直して微笑みながら振り返った。 まだ探索は始まったばかりだ。 一日でがっかりしてどうする。 祭りはまだ続くのだ。


  ドローロ侯爵家では沈痛な空気がただよっていた。 昨夜、うわべは楽しそうにはしゃいで帰ってきた妻を、玄関まで喜んで迎えた侯爵だったが、朝になるともう起き上がれず、ぐったりと横たわったままになった。
  すぐにヴェネツィア一番の医者が呼ばれた。 だが、弱りきっている侯爵から更に血を抜くことしかできず、重苦しげに首を振るばかりだった。
  素人目にも既に見えていた。 侯爵は危篤状態なのだ。 だがリーザは認めようとせず、さらに思いつく限りの医者を呼ばせ、つききりで看病した。
  浮気者だろうと何だろうと、リーザが年の離れた夫を愛し、大事に思っていることは誰にでもわかった。 うつらうつらしている侯爵の意識が戻ったとき、リーザはいつもそばにいて、微笑みかけた。 部屋の外でこっそり泣いても、眼を腫らさないように必ず水で冷やしてから寝室に行った。

  夕方、湾の外へと静かに潮が引き始めたとき、、侯爵は混濁した意識から抜け出して、眼をぱっちりと開き、グストを呼ぶように言った。
  先ほどまで何度も医者を迎えに行き、そのときは居間でじっと待機していたグストは、リーザが自ら呼びに来たので驚いて立ち上がった。
  リーザを前に立てて寝室に入ると、侯爵は最後の力を振り絞ってグストをそばに近寄せ、上ずった声でささやいた。
「君は妻を愛しているな」
  グストの首筋がぎゅっと強ばった。 答えるに答えられずにいると、ドローロ侯爵は不意に青年のような微笑を浮かべ、楽しげに言った。
「わたしも彼女を愛した。 16のときのリーザの愛らしかったこと。 10枚も肖像画を描かせたぐらいだ。
  彼女はわたしの旧友の娘なんだ。 ただし正式な子ではない。 友が死ぬとき、娘の行く末を案じて、わたしに預けていった。
  だからわたしにとっても娘なんだ。 形の上では妻だが」
  はっとして、グストは思わず声を出してしまった。
「それでは、貴賎婚という形で……?」
  当時イタリアでは、貴族は身分の低い者と結婚しても、爵位や財産を継がせることはできなかった。 だから身分のないリーザには、正式な結婚なのにもかかわらず、相続権はないのだった。
「そうだ。 だから動産はほとんど宝石に替えて、この子に贈った。 だが土地や家は、そして家名は、リーザのものにはならない。 かわいそうに……」
  突然侯爵は、瀕死の人間とは思えない力で、グストの手首を握った。
「君を見込んで護衛に頼んだ。 これからもリーザを守ってやってくれ。 そしてできたら、あの子の夫になってやってほしい。 遊び歩いていたように見えただろう。 だがあれは違うんだ。 目的があって……」
  手を痛いほど掴まれても、グストは動かなかった。 リーザがなぜ行きずりの彼を誘ったか、ようやくわかったのだ。 リーザは男の子を産みたかったにちがいない。 男子なら、裁判所に訴えれば相続権が認められる場合がある。 侯爵家が絶えないように、リーザは彼女なりに必死だったのだ……
  リーザが静かに近寄ってきて、侯爵の口元をやさしく拭いた。
「私のことは心配しないで。 ひとりでちゃんとやっていけます」
  グストの胸がきりきりと痛んだ。 リーザは自分など求めていないのだ。
  侯爵はゆっくり目を閉じた。 そして呟いた。
「ちょっと疲れた。 寝かせてくれ」
「はい」
  リーザは立ち上がってカーテンを引き、暖炉に薪をくべて火を掻きたてた。 ちょうどよく温まった部屋の中で、侯爵は静かに息を引き取った。
 

 朝食の後、フランドル経由で輸入する北方の毛織物の見分け方をジュゼッペから教わって、さすがに疲れ、瞼がくっつきそうになったアルマンドは、客用寝室に行こうとして廊下を歩いていた。
  すると、裏手にある回廊にクリスティーナが座って、中庭に見入っているのに気付いた。 人見知りをしたことのないアルマンドは、ためらわずに歩いていき、クリスティーナと並んだ。 彼女ははっとして、上半身を思わず斜めに倒した。
  苦笑して、アルマンドは言った。
「よけなくてもいいでしょう?」
  クリスティーナは答えずに、よろめきながら立ち上がって去ろうとした。 驚いて、アルマンドは足を踏み出し、道を塞ぐ形になった。
「僕たちはもう婚約したんです。 話し合いましょう。 これからどういう家庭を作るか。 あなたの望みは何なのか」
  うつむいたまま、クリスティーナは早口で言った。
「わたしの望みなど、どうでもいいことです」
  アルマンドの眉が寄った。
「そうはいきません。 たとえ結婚が契約だとしても、お互いできるだけ歩み寄って、居心地よくできるはずです。 あなたは僕を婿として受け入れてくれた。 だから僕もあなたを大事にするつもりです」
  彼の口調は真面目だった。 だがクリスティーナはいっそう固い表情になって、平坦な声で言った。
「私は、求婚した殿方を断ったことは一度もありません。 これまでは父が許さなかっただけです」
  そして、白けた表情のアルマンドを置いて、できるだけ急いで自分の部屋に入ってしまった。








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