賢くても、まだ18歳の、少年と言える年ごろの子だった。 アルマンドはクリスティーナの意外な反応に戸惑い、夢の人を見つけることもできず、すっかり気分を滅入らせて、ベッドにどしんと横たわった。
疲れているのに目が冴えて、なかなか寝つかれない。 これまで街じゅうの女たちにちやほやされてきたアルマンドにとって、娘に嫌われ、父親に好かれるというのは初めての経験だった。 財産や家柄のために結婚するのは、この当時にあっては普通、というより当たりまえの話だったが、愛のある家庭に育ったアルマンドは、やはりそれだけでは物足りなかった。
勢いよく寝返りを打って、アルマンドは自分に言い聞かせた。 この家に奉公に来たと思おう。 仕事を覚え、ジュゼッペ氏のいい片腕になろう。 僕がここに落ち着けば、グストだって戦場から戻ってこないわけにはいかなくなる。
戦場――アルマンドは身震いした。 小さい頃、エレおばさんが話していた恐怖談が頭にこびりついて離れない。 義理の弟にあたるレオンという人は、大砲が暴発して上半身を吹き飛ばされたそうだ。 そんなぶっそうな場所にグストがいると考えただけで、うなされるほど怖かった。
そのグストがヴェネツィアに戻ってきていることを知らず、アルマンドはそろそろ家に婚約報告をして、父か母から新大陸に手紙を出してもらい、兄を呼び戻そうと考えていた。
明日の午前はグンナーレさんに時間をもらって、うちに帰ろう。 父さんはもうじきまた航海に出てしまうだろうし、早くしないと――アルマンドはなかなか訪れない眠りの精を待って、疲れた瞼を閉じた。
侯爵の遺言で、葬儀は近くの教会ではなく、庭の納骨堂で密葬に近い形で行なわれた。 公開にしなくても、医師が何人も訪れて自然死を確認していて、残された家族が疑われる心配がなかったからだ。
それでもヴェネツィア近郊に住む2家族の親類が駈けつけた。 困ったことに両家とも侯爵の甥にあたり、おそらく年上の姉の息子が爵位を継ぐことになるだろうから、すでに嫉妬と腹の探りあいが、葬儀の最中から始まっていた。
絹の黒衣を身にまとった未亡人リーザは、泣きはらした目を伏せて、物静かに夫の棺に近づき、最後にしばらく顔をながめてから、蓋を閉じさせた。 しかし、そんな当然の仕草も、親戚たちのかげ口を止めることはできなかった。
「猿芝居のうまい女だ」
「ねえ、せめて侯爵家代々に伝わる『ラスコーネの首飾り』だけはあの女から取り戻せないかしら。 家宝なんだから、あれは」
「侯爵が手づから渡したとなると、取り返すのは難しいだろう」
「くやしいわねえ! あんな成り上がりに持っていかれるなんて!」
もう財産の争奪戦に突入していた。 リーザのために侯爵が改装したというこの美しい館も、今訪れている両家と、それにジェノヴァにあるというもう1つの分家によって、おそらく売りに出され、大枚の金貨となって細かく分けられてしまうのだろう。
棺が納骨堂の定まった場所に安置されるのを見届けた後で、リーザはすっと家に入っていった。 目立たぬように端に控えていたグストは、常にリーザの背中を目で追っていたので、すぐそのことに気づき、さりげなく後についていった。
早足で一階の広間に入りかけたリーザの足が、ぴたりと止まった。 中に人がいる。 片方の手袋を取り、所在なさそうに軽く振り回していたその男は、リーザの姿を目にしたとたんにぱっと顔を輝かせて歩み寄った。
黒い手袋をはめたリーザの手を持ち上げ、キスしながら、彼は口の中にふくんだような声で尋ねた。
「こんなとき、こんな場所ではありますが、一刻を争うようなので、強引にお訪ねしました。 わたしの気持ちはよくおわかりのはず。 いつもあなたを見ていました。 そして憧れていました。 どうかこのエンツォ・ダラスコをあなたの夫にするという、望外の喜びを与えてください」
言葉はていねいだが、ダラスコのよく動く茶色の目はすでに、勝利を確信していた。 リーザには身寄りがない。 家柄のある男との再婚が、もっとも願わしい道なのだった。
リーザは動かなかった。 しかし、手を引っこめようともしない。 後から入ってその光景を見たグストは、思わず立ちすくんだ。
エンツォ・ダラスコはかがめていた背を伸ばして、薄笑いを浮かべた。
「まだいたのか、『蛙食い』。 あいにくだがもう護衛はいらない。 これからはわたしが守る。 さっさとこの家を出ていくんだな」
総督の舞踏会で会った男だと、グストはすぐ悟った。 あのときも彼はリーザにへばりつき、甘い言葉を並べ立てていた。 そしてリーザは彼の言葉にまんざらでもない様子で、笑い声を上げていたのだ。
ダラスコの服は上等だ。 横柄な態度から見て、おそらく身分もあるのだろう。 今のグストでは、はっきり言って勝負にならなかった。
部屋の中には入らずに、ぐるっと体を回して、グストは廊下を歩き出した。
そのとき、背後で衣擦れの音がして、鋭い声が追ってきた。
「嘘つき!」
グストの足が、縄でからめ取られたように止まった。 声は少し近づき、激しさを増した。
「逃げるの! あの人が死に際に手を取って頼んだとき、あなたは断った? 生きている者に嘘はつけるけど、天国にいる人には……」
言葉が途切れた。 わっと泣き出す声が後に続いた。
グストの頬にも熱い涙が筋を引いて流れた。 再び向きを変えて、彼は広間に飛び込み、ドアの近くで小犬のトントンを抱き寄せて泣き崩れていたリーザの手を掴むがはやいか、風のように走り出した。 あっけに取られたダラスコが、あわてて追いかけようとして椅子につまずいたが、2人は見向きもせずに庭を突っ切って、昨夜のなごりのゴミがいたるところに散らばっている街筋を、翼が生えたように駈け抜けていった。
祭りの観衆が散らかした残りを、満足そうに豚が並んで食べている横を、ゆっくりとアルマンドは上っていった。 そして、リアルト橋の中央で少し足を止め、午前中の光に眩しく輝く水を眺めた。
どこでどうすれ違ってしまったのだろう。 アルマンドは、父に話したこととはうらはらな、本当の刀自の予言を思い起こしていた。
刀自は裏町の小さな部屋で、アルマンドの頭の中まで見通すような目をして言ったのだった。
「あんたは恵まれすぎている。 顔も頭も親もいい。 これまでの人生で、すべての運を使いきってしまったと言っても言い過ぎじゃないね。
これからは人のために尽くしなさい。 無事に生き延びるすべは、それしかない。 愛されることを望まず、愛しなさい。 そう努力すれば、中身も見かけと同じ、羽根の生えた天使になれるかもしれないよ」
あわれな遊び女を救い、金目当ての求婚者に悩まされているクリスティーナも助ける――一石二鳥の快挙だと思ったのに、どうやらどちらも彼を必要としないらしかった。 考えが甘かったかな、とアルマンドは深く溜め息をついた。
家にたどり着くと、一階のテラスで話し込んでいたマルゴとジュールが一斉に顔を向けた。
マルゴが喜んで迎えに行こうとするのを手で止めて、ジュールが立ち上がった。 また端麗な額に皺を寄せている。 アルマンドは気後れを押し隠して、元気に石段を踏みしめてテラスに上がった。
「お父さん、話があるんだ」
「わたしにもある」
底冷えのする声で、ジュールが応じた。
「まる2日間、どこへ行っていた。 母親を心配させるのが、そんなにうれしいか」
「ごめん」
これはマルゴに向けた言葉だった。 物怖じしない目で父を見返すと、アルマンドは庭中に響きわたる爽やかな声で言った。
「僕、婚約したんだ」
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