表紙

63 駆け落ちの後


 マルゴの眼が、まるでフクロウのように真ん丸くなった。 ジュールもさすがに驚いたらしく、一瞬言葉を失った。
  だが、誰よりもショックを受けたのが、2階からジャンカルロとフィリオ(彼がどうやら本命らしかった)を伴って降りてこようとしていたルチアだった。
「婚約……?」
  とたんに口がへの字になった。 泣き出しそうな彼女を見て、フィリオが慌てて慰めにかかった。
「婚約だよ。 すぐに結婚するわけじゃないんだから」
「するよ」
と、アルマンドは容赦なく言った。
  腰に両手を当て、ジュールはゆっくり眼を細めた。 こういうときは、声を張り上げて怒るより怖い。
「筋道立てて説明しろ」
  びしっと言われて、アルマンドは見事な金髪をさっと後ろに振り払い、負けずに強い声を出した。
「僕はおとといの朝、ジュゼッペ・グンナーレさんの長女のクリスティーナに結婚を申込んで、本人にも父親にも認めてもらった」

  冬だから冷たい風が吹くのは当然だが、そのとき庭を吹きすぎた驚きの突風は、まさに人々の心を凍りつかせた。
  ゆっくりと腕をおろして脇に垂らすと、ジュールは怒るかわりに、ぽつりと力なく言った。
「おまえ、そんなにこの家を出たいか」
  いつも通り、悟りのいい父が瞬時に真実を悟ったのを知り、アルマンドの顔が歪んだ。
「僕はただ……」
「ただ、何だ。 結婚するのはいい。 クリスティーナ・グンナーレはなおいい。 ただ、あの子は、おまえが簡単に考えているような相手じゃないぞ。 わたしは一度だけ会ったことがあるが、あの子は……」
  ジュールは最後まで言い切れなかった。 荒っぽい蹄の音が前の通りにこだまして数秒後、若い男が紺色のマントをひるがえすと庭に躍り込んできたためだった。
  彼の顔は、激しい運動と、さらに激しい怒りとで、熟したリンゴのように真っ赤になっていた。
  つかつかとジュールの前に歩みよるなり、その男、エンソォ・ダラスコは叫んだ。
「貴様のバカ息子が……!」
「僕のことか?」
  かっとなって飛び出したアルマンドを、ダラスコは乱暴に払いのけた。
「おまえじゃない。 黒くてでかい方だ! あいつ、相手もあろうにドローロ侯爵未亡人をさらって、船で逃げるつもりだ!」
  アルマンドは息を呑んだ。
「兄さん…… グストが帰ってきてたのか!」
  彫刻のようなジュールの顔に、その日はじめて笑顔が浮かんだ。
「でかした、グスト」
「なんだと!」
  逆上して剣を抜こうとしたダラスコの腕を、両側から伸びたアルマンドとフィリオの手がしっかりと押さえつけた。
「ここでは、武士は商人に刀を抜くのはご法度だ」
「ご主人は元騎士だろう!」
「昔の話だ」
  華麗な足取りで石段を降りながら、ジュールはダラスコに釘をさした。
「ここは自由都市。 ものごとは議会で決まる。 貴族には貴族の義務、商人にはそれなりに応分の義務がある。 恋も同じだ。 ドローロの奥方は意志が強いので有名な人だ。 その彼女がグストを選んだのなら、もう取り戻す手立てはない」
  それから人が変わったように素早く、ジュールはアルマンドに向き直った。
「だが2人をこのままカナダに行かせるわけにはいかない。 もう兵隊はたくさんだ。 おまえがグンナーレ家に婿入りするなら、うちには新しい後継者が要る」
  たちまちアルマンドは満面に笑みをたたえて走り出した。 あわててフィリオが追いかけた。
「おーい、走っていっちゃ途中で息が切れる。 僕の馬を貸してやるよ!」
  取り残されたダラスコは、怒りにまかせてマルゴが大切にしているツルバラの枝を引きおろし、足蹴にしてから、憤然と出ていった。
  それまで泣き顔をしていたルチアが、いかにも馬鹿にしたように顎をそびやかして、遠くなっていく後ろ姿に言いはなった。
「何さ、七面鳥が!」
  役立たずの洒落男という意味のその言葉に、まじめだけが取りえのジャンカルロさえ吹き出した。








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