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64 サンマルコ広場で


 フィリオが自慢の鹿毛を貸してくれたのは正解だった。 アルマンドがサンマルコ広場に飛び込んだとき、2人の駆け落ち者は今しもゴンドラに乗り移ろうとしていた。
「グスト!」
  アルマンドの絶叫に、グストはリーザを助け下ろそうとしていた手を止め、振り向いた。
  アルマンドは風のように走り、勢い余って、兄の大きな体に文字通り体当たりしたので、グストはよろめいて危うく海に落ちるところだった。
「こらっ」
「こらじゃない!」
  ぜいぜい息を切らせながら、それでもアルマンドは言いたいことは言った。
「父さんが引きとめろって。 2人して家に来いって。 結婚を認める、後を継がせるって!」
  リーザが口に手を当てた。 グストは大きく見張った目で弟を見つめていたが、やがてうめくように言った。
「でも、おまえは……」
「僕は結婚するんだ!」
  アルマンドがここぞとばかり大声で叫んだとたん、広場が静まり返った。
  そこここに開いていた売店の主人、売り子、客たちは、静物画のように動きを止めた。 同じように、あちこちの家のバルコニーでくつろぎなから夜を楽しみにしていた連中も、耳をラッパのようにそば立てて、アルマンドの次の言葉を待った。
  アルマンドは息を吸い込み、はっきりと区切って発音した。
「僕は、クリスティーナ・グンナーレ嬢と婚約した」
  何ともいえないどよめきが広場を巡った。 他の人に一刻も早く伝えようとばたばた駈け去っていく者、その場で興奮に駆られてひそひそ話を始める者。 若い娘の中には、ルチアのように涙を拭っている者さえあった。
  21歳から志願兵となってこの街を離れていたグストは、初めて聞く名前なので反応を示さず、婚約という事実の方に愕然とした。
「おまえ……」
「おまえしか言えないの?」
  アルマンドは明るく笑った。
「お互い、めでたいじゃないか。 一緒に結婚式を挙げよう」
  そこで、せっかちなアルマンドはさっとリーザに手を差し伸べて、頬にキスした。
「おめでとう、ええと、ドローロ夫人」
「リーザと呼んで」
  喜んで美青年にキスを返しながら、リーザははしゃいだ。
  ためらっているグストの腕を握って、アルマンドは説得を続けた。
「まだ戦うの? リーザさんをまた未亡人にするつもり? 元気で丈夫なうちに、父さんを助けて後継者になってよ。 僕はもう、グンナーレさんの家で見習いをしてるんだから」
「アル……」
  アルマンドはそう呼ばれても怒らず、逆に満面の笑顔になった。
「そうだよ。 僕はグストのかわいいアルなんだ。 言うことをきいてよ。 いつもきいてくれたじゃないか」
  グストは一瞬、固く目をつぶった。
  それから、ぱっと開くと、弟を強く抱きしめた。

  アルマンドが貸し馬屋から2頭借りてきて、3人はゆったりとレジオーニ邸に向かった。 話を聞きつけた野次馬たちが次第に集まってきて、屋敷の前に到着したときは、まるで祭りの中にもうひとつ祭りができたような騒ぎになっていた。
  人を引き連れて歩くのに慣れているアルマンドはまったく平気で、馬からさっと飛び降りると柵に上り、いつも以上に晴れやかに叫んだ。
「僕たちは結婚するんだ!」
「おうっ!」
  人々は一斉に掛け声をかけた。 アルマンドはマントを取って、旗のように頭上で打ち振った。
「今日はめでたい日だ! 特別に、ここにいる人全員に、エットーレの特製ビールをおごるぞ!」
「おーうっ」
  すっかりガキ大将に戻ったアルマンドを先頭に、人々が練り歩いて去っていく様子は、まるでハメルンの笛吹きのようだった。 もっとも、この地方の人がその話を知っていたかどうかはわからないが。

  手を貸して馬から下ろしたリーザの顔が、目に見えて青ざめてきたのて、グストはそっと肩を抱いた。
「大丈夫。 うちの父と母は普通の親とは違うんだ。 人の何倍も苦労しているから、それだけ思いやりが深い。 君を傷つけるようなことはないよ」
「でもね」
  リーザは、歯の音が合わないのを隠そうとしながら、なんとか答えた。
「私は性悪の浮気者と言われてるのよ。 ほんとにそうだったけど」
「ちがう」
  グストはきっぱりと言った。
「君も苦労したんだ。 それだけだ」
  緊張のあまり、指が白くなるほどグストの手をぎゅっと握って、トントンをそっと芝生に下ろすと、リーザは美しい石段に足を乗せた。








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