グンナーレ邸に戻っていくアルマンドの足は重かった。 これまで努めて思い出さないようにしていた暗い記憶が、今日に限って頭を占領して、なかなか出ていってくれない。 たぷんグストとリーザのあまりにも強い愛情を見てしまったためだろう。
あんな風にお互いを想い合えたらな、とアルマンドは苦しげな溜め息をついた。 彼はいつも一方的に想われるばかりだった。 大抵は遠くから憧れているだけだが、ごくたまに、夢とうつつの区別がつかなくなる娘がいる。 そういう哀れな者のひとりに、アルマンドはさんざん悩まされたのだった。
エベリーナというその少女は、半年間アルマンドを追いつづけた。 学校へ行くにも買い物するにもついてくる。 アルマンドと婚約していると言いふらし、何度か庭にまで入ってきた。 常にどこかから見られている気がして、始終振り返る癖がついてしまったほどだった。
この一方的な恋は、エベリーナが自殺を図ったところでようやく終わった。 幸い、飲んだ毒が弱かったため、未遂だったので、世間体をはばかったエベリーナの父親が、彼女をスペインにいる従兄と結婚させてヨーロッパの外れに追いやり、ようやくアルマンドの身辺に平和が戻った。
だがアルマンドの心には見えない傷が残った。 道を間違えた愛の恐ろしさを、身を持って体験した彼は、恋するのにもされるのにも、臆病になってしまった。
一週間分のエネルギーを今日一日で使い果たした気分で、アルマンドはグンナーレ邸の立派な門をくぐった。 すると中からジュゼッペ自らが、満面の笑みを浮かべて出迎えに来た。
どうやらジュゼッペは、アルマンドが気を変えて逃げてしまったのではないかと、ずっと気を揉んでいたらしかった。
「おお、よく帰ってきたね、君」
肩を抱かれて、アルマンドは面食らった。
「もちろんです。 家に結婚の報告に行ってきました」
ジュゼッペは激しくまたたきした。
「それじゃ、君は親に無断でうちに?」
「はい。 でも両親は喜んでくれました」
ちょっと大げさに話したが、少なくとも反対はされなかったから嘘じゃない。 それを聞いて、ジュゼッペはほっとした表情になった。
「そうかそうか。 いよいよ本決まりだな」
「ええ。 それに兄のアウグストも婚約したんです。 だから、できれば一緒に式を挙げたいと思うんですが」
とんとん拍子の話に、ジュゼッペは天にも昇る心地だった。
「それじゃ、いっそスザンナ達も結婚させてやろう。 3組一緒というのはどうかね? まとめてやれば豪華だし、金のかかりも少なくてすむ」
「お嬢さんたちがそれでいいと言うなら」
アルマンドは控えめに答えた。
その日は午後になると空には雲ひとつなくなり、気持ちのいい小春日和になった。
アルマンドは自室のバルコニーに佇み、見るともなく運河に目をやっていた。 もうあのゴンドラの女を見つけるのは半分あきらめていた。 彼女はきっと他所からやってきた流れ者だったのだ。 ひとりさびしくお茶を引いていたところを見ると、ヴェネツィアでは売れず、見切りをつけて立ち去ったのだろう。
壁にもたれて顔を気持ちのいい陽射しにさらしていたとき、どこからか声が流れてきた。
女ふたりがひそひそ声で話を交わしている。 ひとりはどうやらスザンナらしかった。
「いくら最高の結婚相手でも、魂が抜けてちゃ話にならないわ」
疲れた声が答えた。
「それでも私を選んでくれたのよ。 婿に入るだけなら、この町には私より条件のいい娘さんが大勢いるのに」
「恩に着ることないわ。 結局財産目当てじゃないの!」
クリスティーナの声が不意に鋭さを増した。
「あなたはいいわよ。 五体満足で、おまけにそんなに美しい。 いくらでもより好みができるわ。 でも私にまで自分の基準を押し付けないで。 私は心から感謝して、あの人の妻になるわ」
「ティーナ!」
スザンナは半分泣き声になった。
「そんなつもりで言ったんじゃないのよ! 私はただ、アルマンド・レジオーニが姉さんの値打ちを全然知らないし、知ろうともしないから」
「もういいの。 気を遣ってくれなくても。 もっと辛くなるから」
そう言うと、衣擦れの音がして、リュートの爪弾きが聞こえ出した。 やわらかな声がリュートに合わせて歌った。
「教えてよ、ヒバリ。 春はどこへ行ったの? 足の凍る冬は過ぎて 風の神が雲を散らし 金の風をよこすはずが いつまでも雪は続く 池の氷張りつめて 鱒のうろこ…… あら!」
弦が急に切れたらしく、ビンッという妙な音が響いて、娘たちは笑い出した。
息をひそめて聞いていたアルマンドの手が、盲人のように背後の壁をまさぐった。 体が震え、両方の脚から力が抜けていった。
この声…… このかわいい笑い声は…… !
クリスティーナが静かに言うのが聞こえた。
「一緒に式を挙げるのは無理。 杖がなければまっすぐ立つこともできないんですもの。 でも、あなたの式には出たいわ。 ずっと願っていたの。 どんなに美しいでしょうね。 あなたの花嫁姿は」
また衣擦れの音がして、2人はバルコニーから部屋に戻ったらしく、もう声は聞こえなくなった。
アルマンドはじっと立っていた。 もうその視線は運河にはなく、声が消えていった方角を、ぼうっとただ見つめ続けていた。
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